沖縄 編(31)4日目⑥「梯梧(でいご)学徒隊」 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


            [沖縄 編(30)のつづき]


「ひめゆりの塔」に隣接して建つ「梯梧之塔」に。



こちらは、土産物屋が並び、入り口で花を売り、観光バスが何台も停まり、
高齢者ツアー、修学旅行生などなどが、どっと流れ込む「ひめゆりの塔」
とは対照的に訪れる人も少ない。悲しい事だ。



「梯梧(でいご)学徒隊」私立昭和高等女学院
 動員数17名。戦死者数9名。在校生(学徒隊以外)死者数49名。

 

水とキャラメルをお供えし手を合わせ、感謝、慰霊いたしました。



梯梧の塔説明碑文

 梯梧の塔は、昭和46年6月23日、旧校舎跡より、ゆ
かりの地に移転。母校の校歌「梯梧の花の緋の誠」にちな
んで、「梯梧の塔」として建立された。
昭和20年1月25日より約1月間の看護教育を受け、
3月6日、17名(4年生)は、第62師団野戦病院(石
5325)へ学徒看護隊として、ナゲーラの壕へ配属され
た。
 4月1日、地上戦が始まるや、日を逐うて前線からの負
傷兵が激増、壕の中は、まるで生き地獄、昼夜の別なく看
護は続いた。4月29日学友の中から最初の戦死者が出る。
ナゲーラの壕は満杯で収容できず、9名は第二分院の識名
の壕へ移動した。壕の中で休息中、飛んで来た破片で学友
2名が戦死。戦況の悪化で5月末、武富、米須、伊原へと
後退。米軍は物量にものを言わせて猛攻撃は止むことなく、
伊原の地で6名戦死。病院としての機能を果たす事ができ
ず、6月19日、隊に解散命令が出た。
 無念にも学業半ばにして、戦禍の中で犠牲になった、同
窓生57名と、職員3名、計60柱(旧字)が合祀されている。
 勝利を信じ若くして御霊となった学友の永遠に眠る南部
終焉の地に建立、恒久平和を願いつつご冥福を祈っている。




                            つづく