[沖縄 編(29)のつづき]
次に訪れたのは、女子学徒隊の中で、もっとも知られている
「ひめゆり学徒隊」の慰霊碑、ひめゆりの塔です。


「ひめゆり学徒隊」県立師範学校女子部・県立第一高等女学校
動員数222名。戦死者数123名。在校生(学徒隊以外)死者数88名。

管理されているのか、碑の前には献花しかなかったが、キャメル置き、
手を合わせ、感謝、慰霊をいたしました。
そして、碑の裏側にて水を捧げました。


ひめゆりの塔の記
昭和20年3月24日、島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校職員生徒 297名は、軍命によって看護要員として、ただちに南風原陸軍病院の勤務についた。戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり、南風原村一日橋、玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦、生徒たちは、夜昼となく力のかぎりをつくして負傷兵の看護をつづけた。
日本軍の首里撤退もせまった5月26日の夜、南風原陸軍病院は重傷患者は壕に残し、歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし、砲弾をくぐり、包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。南に下がって後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務をつづけた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
6月18日、いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌19日、第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれて地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った5名をのぞき職員生徒40名は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等29名、民間人6名も運命をともにした。
その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の3分の2が、こうして最期をとげたのである。
戦争がすんで、二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により、昭和21年4月7日最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備された。ここに沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員16名、生徒 208名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。
いわまくらかたくもあらむやすらかに
ねむれとぞいのるまなびのともは


沖縄戦殉職医療人之碑 陸軍病院第三外科職員之碑

ひめゆり平和祈念資料館
:入館料 大人310円 高校生210円 小・中学生110円
公益財団法人 沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団
:事業の概要
ひめゆり学徒の沖縄戦体験を語り継ぎ、戦争の実相を伝えることで、再び
戦争をあらしめないようにすることを目的に、ひめゆり平和祈念資料館の
管理運営事業などを行っている。
施設を見学し、その展示方法に疑問を感じた。
「ショックを与え」→「恐怖をあおり」→「思考停止にし」→「物事を単純化して」→「一歩的な方向へ導く」
ここはプロパガンダ施設なのか。


顕彰碑 説明板
つづく