沖縄 編(16)2日目⑩ 「名護蘭(なごらん)学徒隊」 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


            [沖縄 編(15)のつづき]


次なる目的地は、現存の学校内にあるので、公開されているかどうか。
少々不安を抱えながら向かいました。


途中のSA



入り口付近で、先生らしき方に伺い、事務所にて許可を頂きました。



校舎・校庭を見ながら進みます。



慰霊碑は、校内の奥にございました。



「名護蘭(なごらん)学徒隊」南燈慰霊之碑です。



県立第三高等女学校・第三中学校
動員数10名。戦死者数1名。在校生(学徒隊以外)死者数1名。



水とキャラメルをお供えし手を合わせ、感謝、慰霊いたしました。

 

南燈慰霊之塔

 南燈慰霊之塔は、一九五六年「三中健児之塔」として兼久公園に建立された。一九七二年沖縄県立第三高等女学校戦没者を合祀、一九八九年「南燈慰霊之塔」と改名、二〇〇一年にこの地に移転した。
 この塔には、一九三一年に勃発した満州事変から一九四五年に終結した太平洋戦争までに戦没された沖縄県立第三中学校の卒業生・在校生三三九柱、県立第三高等女学校の卒業生・在校生三六柱、計三七五柱の御霊が合祀されている。
 県立第三中学校の卒業生・在校生は、一九四五年三月、軍命により、防衛隊員・鉄血勤皇隊員及び通信隊員として動員され、真部山、八重岳、名護岳、多野岳等で戦ったが、米軍の圧倒的な物量の前に壮烈な最期を遂げていった。また、県立第三高等女学校の卒業生・在校生も、軍命により女子挺身隊員(軍需工場)・従軍看護婦として動員され、若い命を散らしていった。
 戦没者の御霊を慰めるとともに、悲惨な戦争を二度と起こさないよう、「恒久平和の誓い」としてこの塔を建立する。

二〇〇一年(平成十三年)三月三一日

沖縄県立第三中学校同窓生及び遺族一同
沖縄県立第三高等女学校同窓生及び遺族一同
沖縄県立名護高等学校同窓生一同



県立第三高等女学校・第三中学校時代の校門が保存されております。





沖縄県立第三高等女学校 校歌碑


沖縄県立第三中学校 校歌碑


許可を得る際にお聞きしたところ、「遺族や関係者が慰霊に来る事はあるが、
それ以外の方はあまり来ない」とおっしゃっておりました。

快く承諾して下さった学校の皆様に感謝しつつ、ホテルに戻りました。





                            つづく