=第22日目⑦=
信長公邸のあった二の丸跡には「織田信長本廟」がございます。

お参りをし、横にある100名城スタンプを押しました。

二の丸跡を下り、天主台を左手に見て本丸へ


天主台石垣

本丸と本丸取付台に向かう石段(奥)
本丸跡中央にある説明板の文(写真中央)
天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。
東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台.本丸.帯廓三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。昭和16年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34m×南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されました。7尺2寸(約2.18m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもありました。
4~6寸(12~18㎝)の柱を6尺5寸(約1.97m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かりました。
豊臣秀吉が天正19年(1591)に造営した内裏の清涼殿等を参考にして復元したのが右の図です。
西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしょう。なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのでしょうか。
「信長公記」には天主近くに「一天の君.万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。
信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。-説明板より

本丸取付台石段

本丸から天主台を見る
つづく