ブログを書いていると同じところを思考がグルグルと廻っている…
そして、私が書いた考えだ、彼が書いた考えだ…という自他を分離して思考するのが人の常だか…
仏教徒だった昔の日本人は自他の違いを超越していたので、自分の手柄は主(あるじ)の手柄だったし、自他の違いの様な些細なことに固執しない村社会を維持するように努めていた…
その辺りが、輪廻だし、再帰だし、無我なわけだ。
また、人の世には、善にも、悪にも、意味がある…
悪が無ければ善は生まれず、善が無ければ悪も見えないわけで、それが表裏…
そんな世界を蓮の花は良く表している…
全ては地下茎で繋がった同じ花であり、泥の中から咲き、実は自他の区別はない。
人はみな子宮に臍の緒で繋がっていて、その先は受精卵へと続く…
人は唯我で自己の境界線から出られないから一人だが、境界線の外にいる他者も同根…
人は一人であり一人ではない…
この世は、そんな、乙であり乙でない、甲であり甲でない…という論理で出来ている。
だから、みんな、村社会を嫌い、村社会を望む…
官僚社会や会社社会は嫌いだが、理想の村社会に戻りたがる…
そして、全ての人が自分の言語は素晴らしいと思うし、他の言語に浸食されることを嫌う。
しかし、考えてみてください。
私たちは漢字を使っています。
漢字は全て輸入された言語であり、純粋な日本語など存在するのでしょうか。
だから、日本語は日本人固有のものであり日本人固有のものではない…と言えます。
つまり、日本語が廃れてきたのではなく、言語を使った論考が劣化してきているのだと私は思います。
プレゼントやオリジナルを使ったからと言って日本語が侵されているわけではなく…
この外来語を排斥する道は、戦前のjazzやclassicを排斥した道へと通じています。
考えてみる、論考、THINK…が大切なわけで、日本語で考えようと、英語で考えようと、カタカナで考えようと、同じことです。
そんな世界を目指している人々がいます。
モヨチャット
以下、転載
------
これだけ情報通信技術が発達し、語学学習が盛んになっても、
異言語・異文化の人たちとの間の意思疎通はなかなか進んでいません
そして話し相手のいない人も増えています
世界中の人が簡単に意志疎通できれば、
紛争や戦争もない平和な世界になるでしょう!
------
このようにイラストやイメージだけで人は思考することができるわけで…
意思疎通できないのは言語の違いや劣化のせいではなく論考の劣化が原因でしょう。
どんどん外来語だって使ってみたら良いでしょう。
ただし、外来語に論理的思考が惑わされてはいけません…
でも、実は、漢字も表意文字ですからイメージですね。
「多」「相」「空」「無」…その一語にイメージがあります。
漢字は象形です。
漢字で論考をイメージ化できれば判りやすいでしょうし太古の論考に戻ることもできるはずです。
そして、分類、選別、分別は宿命ですし…
顔を覚えたり、風景を憶えたりするもの宿命ですし…
何かを探究しようとしたり、創造主の謎かけを解こうとするのも宿命です。
ひとりひとりの脳内に浮かんだ論考(考え)を蓮の花のように地下茎まで繋げてみたら…
きっと私たちが気付いていない世界観が見えるのではないか…
やることは、アイデアプロセッサでも、エバーノートでも、マインドマップでも、パワーポイントでも同じこと。
やってみるべきことは自他の境界線を超えて曖昧なまま融合すること…
ただし、適切な相手を選ばなければ、互いに攻撃的になり傷つくことになりますし、下手をすると精神に障害を残します。
自然の法則に基づいた離合集散によるクラスタリングでなければいけません。
そして、それは一人でも多数でも同じこと…
大勢は一人であり、一人は大勢である…
一人ではだめで一人でもいい…
そんな論考を昔の日本人はやっていたのだろうと思います。
さて、日本人は再び心と心で繋がることができるでしょうか?
その心と心とが繋がる方向は、理想郷の村社会でもあり、オウム真理教の閉鎖社会でもあり、北朝鮮の監視社会でもあるわけで…
善への道でもあり悪への道でもある…
全ては人間次第、一人間次第ですし、全人類次第でしょう…
そこには善と悪との戦いがあり、分別が無ければ進化はおこらないわけで、新生と淘汰、合流と分離の繰り返しが必要です。
地下に広がる深層のいずこへと潜っていくか…
そのためには論理展開を粒子化し自他を混ぜ合わせ繋げてみる作業が必要になるでしょう。
そこを解き明かさないと、クラスタ民主主義は機能しませんし、人の心も救えませんし、人間の知能は人工の知能を配下に置いておくことができないような気がします。