映画「トリック劇場版 ラストステージ」 | クラスタ民主主義システム研究室

クラスタ民主主義システム研究室

☆学習とディベート☆ ☆ネットワークデモクラシーを夢みて☆ 
☆教育ディベートを推進しよう☆ ☆「complex system」で思考してみよう☆「ネットワークデモクラシー(Demoex)研究室」からタイトル改題しました。 

一不安さんにSYNODOSのある記事を教えていただきました。

治らない病気を診ることが医学の神髄だ――人はナラティブによって生きている

以下、一部転載
---------
たくさんの物語を知ることが、生きるコツ 

―― ありがとうございます。先生の研究をこれからも注目していきたいです。最後に高校生にメッセージをいただけますか?

そうですね。やっぱり、神話でも歴史でも、伝記でもおとぎ話でもアニメでも、なんでもいいからいろいろな物語を読んだり聞いたりしてほしいです。人は、あらゆる困難や苦しみの中でも、いろいろな物語をどれだけ知っているかで、世界の様相は変わり、そのときを生きのびることができるのです。困難を経ることで人は発展し進歩します。

人間はどんな困難も乗り越えられる。そういう力が備わっています。多くの人は諦めてしまうけれど、物語を豊富に知っている人は動じないでいられる。そういう心をもって、それぞれの道を進んでほしいです。これが私からの、高校生のためのこれからの人生をすごすためのコツです(笑)。
---------

この中でナラティヴについて次のように書いてあります。

---------
「物語」は事象であり、必ず時間軸があります。「私が空を見上げたときに、大きな音がした」、「お風呂に入ろうとしたら、めまいがした」。ほら、時間が入っているでしょう? 時間が入っているもの、これを「事象」という。しかし、我々は「事象そのもの」を知ることはできないんですね。「言葉」によって物語として記述する他ないのです。

(中略)

私たちは、ありとあらゆる事象をとらえるときに、必ずなんらかの解釈をしているのね。あらゆる角度から事象をとらえることはできないでしょ。あっちから見たら非常に愛想よく対応している店員さんも、違う角度からみたらすごい形相で起こっている店員に見えるかもしれない。すべての角度から捉えられること、事象そのもの捉えることができるのは神だけ。

われわれが、ある事象を、ある角度から切り取って「言葉」にする。それによって運ばれるものが「物語」なんですが、言葉そのもの(ディスクール)と物語そのものは不可分なので、合わせてナラティブといっています。
----------

私には、このように学問的に記述することはできませんが、ちょうど似たようなことを先日観た映画「トリック」で考えていました。




トリック劇場版 ラストステージ 超完全版(本編DVD&特典DVD2枚組)/東宝

¥6,264
Amazon.co.jp

トリック


この映画「トリック」を観ると、私の場合、いつも映画の中に設定してある「ループになった物語」に触発されて、いろいろと考え込んで混迷してしまうことが多かったため、この最新作は観ていなかったのですが、カミさんが「観てみたい」と言うので、観てみました。

前作では鳥居と道がキーテーマになっていて、どちらの道を選ぶか…選択がテーマで、間違って錯覚して選択してしまうことがトリックになっていたと思います。(確認していないので、うろ覚えですが…)

この映画トリック・ラストステージではシャーマンの能力と自然現象の解明がテーマになっています。

人には一族が持っている「能力」を担っていく責任があるのかもしれませんね。別の視点から考えてみると、人々はみんな自分に与えられた能力を活用していく責任があるようにも思います。

世の中の夫婦を見ていると、本当に似た者夫婦が多いですよね。あなたたち、兄弟じゃないのっていうくらい似ている夫婦が結構います。これは、おそらく、父親や母親と似たタイプの人が好みになってしまうため、結局は自分と似た顔つきや体格の人を選ぶのではないでしょうか。そうやって似たDNAを残していくのかもしれません。しかし、逆に、全く似ていない人々を選ぶ宿命の中で人は生きています。自分が好みの体臭の人を選ぶと、その人は自分の白血球型HLAとは大きく違うHLAを持っていたという研究もあります。つまり、自分に似たものを選ぶ行動パターンと自分と違うものを選ぶ行動パターンが併存している…。それが生命の不思議なのでしょう。

また、この映画の中では、映画の最初に出て来たトリックと映画の最後に出て来たトリックに相似性が仕掛けてありました。このように同じ仕組みが働いていることって自然界では良くありますね。例えば、蜘蛛の巣の網も漁網も似たような仕組みです。




この映画トリックを観た後で、鳥の生態についての「ダーウィンが来た」で生物の仕組みの元になる行動パターンについて考えさせられました。

チャイロニワシドリの生態
http://www.nhk.or.jp/darwin/broadcasting/review.html

鳥は巣を飾る…
ネット上でも飾り人を引き付ける…

メスはオスの巣を選ぶ…
雄は巣を飾る
この鳥は他の動物の声を真似る
たくさん花や実を収集する
そして、貯める
雌を怯えさせない
隠れる


蜜蜂の巣は分蜂する…
蜜や花粉を探す…
巣を守る…
雀蜂などの敵と戦う…


増えすぎない、適切な数を保つ、新しくなることで進化する、進化の試みで滅びることもある、よき伝統は引き継ぎ、ダメな伝統は滅びる

豊富な食料や蓄えは豊かさ
割引は快感
充足・幸福・満足

(こうした価値基準は、多くのものを必要とせず、多くを期待せず、夜の一人きりの散歩を中心とした生活を送っている人にはわからない…)

人間の社会性や価値観も脳のタチでできる、どの性向を人それぞれが重んじるかで違ってくる



こうやって考えてみると、真似たり、飾ったり、カモフラージュしたり、踊ったり、探したり、護ったり、戦ったり、投げ縄したり…といった行動は遺伝子で決まっているため、様々な生物が行っているわけです。

私たちが使う「言語」も脳の構造によって規定されていると言われています。音でコミュニケーションしたり、視覚で周囲の状況を認識したり、匂いで誘惑したり、嫌な臭いを出して追い払ったり…と、実は、全て私たちはゲノムに既定された範疇で動いています。

話す、物語る、行動する、考える…

私たちは自分がやっていると思いがちですが…

実は、ゲノムによって創り出された世界の中で、私たちも生きているわけで、ゲノムによって相互に影響を及ぼし合うことは、設計されている…

人や生物それぞれがゲノムで設計されたとおり実体化するわけですから、私たちが仲良くするのも、私たちが喧嘩するのも、私たちが殺し合うのも…、すべてはゲノムの設計下にあるわけです。

とすると、各個体の基本的なパターンに基づいて、集団や集合体が動いているわけですから、世界はもともと常に混沌の中に在るように創られていると考えるべきでしょう。悩み、苦しみ、泣き、安心し、喜び、幸せになり、嘆き、達観し、死ぬ…

私たちが造り出す「物語」も、こうしたゲノムに記述されている「基本要素」が、いろいろなパターンに組み合わされて結像されていきます。

つまり、個々人の認識によって世界観が変わりますし、その集合体として世界が創られていきます。


ウサギ