口コミ感動物語の堀内です。

はじめての方は、こちらからどうぞ!

これまでに、感動発掘人のクライアントさんが一番驚いてくれることの一つに「正直と感謝の力」というのがあります。

起業家の方々の多くは、自分がチヤホヤされることについて「自分がすごい人だから相手にしてもらえている」という勘違いをしています。

そこで、よけいにハッタリに磨きをかける訳ですがそんなのは不要です。その理由は、ハッタリに反応する人は、一番先に集まって、一番先に逃げていくから。もっとも、あてにならない人たちなのです。

自分の正直と感謝を表現した時に反応してくれるのが本当のファン。日々、口コミの鉄板法則にまい進して頂ければ何の心配もありません。

今回、ご紹介する事例は、自分史のメールマガジンを名刺の人脈に1200名に発行しているものです。その、結果ですが、現在までに、累計の反響500件以上、来店数は数え切れません。日本全国からラーメンを食べに来るファンが出現し、現在、映画化の話もあります。

もちろん、この結果は、店主とスタッフの人柄やこれまでの努力のたまものです。

あと、口コミを継続的に増やすというのは伝説を沢山つくるということでもあります。

そのためにも、すごい人になる必要はありません。正直と感謝を素直に表現することで、結局は大きな効果を得る事が可能です。

らーめんみのり 千歳市
石崎道裕さん

石崎さんの声
堀内くんがつくってくれるメルマガは、いつも、自分が泣きながら読んでいます。そして、自分を振り返りながら人間、生きていくのはそんなに難しいことじゃないかもしれない。そんな事を感じることが多いです。今のままで良いんだと私自身が励まされます。あと、反響は、すごくて、メール、電話をはじめ、ご来店も沢山頂いています。このメルマガが少しまとまったら小冊子にするのを、今は、楽しみにしています。

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アホの第1ラウンド「ミッチーガソリンの孤独」

<泣き通しだった少年時代~ミッチーガソリンの孤独>

私は新冠の小さな漁村で育ちました。年の離れた両親との三人暮らしでしたが、生活は貧しく、幼稚園はおろか毎日の食事にも事欠くような状態でした。そして、私には友達がいませんでした。

その村の幼稚園は漁村の飯場にありました。子供心に、何度か親の目を盗んで幼稚園に遊びに行ったことがあります。その度に、酒に酔った父が怒鳴り込んで来て、私を引きずり出していくのでした。

同年代の子供たちは「石崎の親父がきた」というと、おどおどとして怖がりました。誰も私に近づこうとしませんでした。石崎の息子ということで、顔を合わす誰もが自分を歓迎してくれないことは子供心にもよく分かりました。

それが、悲しい事なのか、怒るべき事なのかさえ分からず、ただただ一人で泣いていた事が多かったです。


小学校への入学式はおばあちゃんが来てくれました。両親は漁があるために来られないのです。それは分かるのですが、なぜか、同級生の中で両親が来ないのは私だけでした。

両親が参観日に来てくれたこともありませんでした。勉強が好きだったので、参観日には母に来てほしくて何回もお願いしたのを覚えています。忙しくて無理だと言われても子供なので自分を抑えられないのです。

私は自分の姓が「石崎」で出席番号が一番だったので、座席も右の一番手前です。漁があることが分かっていても、ガラガラっと教室の後ろの扉が開いて父兄が来るたびに、母が来たのでは?と、振り向いたのを覚えています。

そして、小学校に入ってもやはり友達が出来ませんでした。いつも仲間はずれで、いじめられていました。とにかくすぐに泣く、泣き虫で、なぜか「ミッチーガソリン」と呼ばれていました。

今思えば、「ミッチー」というのは「みちひろ」という名前から来ていて、「ガソリン」は「火がついたように泣いて手がつけられない」という意味だと思うのですが、当時は自分がいじめられていることも分かっていませんでした。

同級生が持っているおもちゃは何ひとつ持っていなかったので、一人で浜に行き、ドラム缶の玉乗りをしていました。よく転んでは骨折をして、その度に病院に運び込まれていました。

小学3年生の時に盲腸になって入院したのですが、誰一人としてお見舞いには現れませんでした。同級生がみんなで担任の先生の家に遊びに行ったこともあったのですが、私だけが後で知りました。

こんな事がある度に寂しいなと思いましたが、家がこんな状態だから仕方ないと諦めていました。

たまに近所の上級生がビー玉とかパッチ(メンコ)の遊びに加えてくれることもありましたが、なぜか、やるたびに勝ってしまうので「勝ち逃げ」だと言っていじめられました。もちつもたれつ、時には相手を勝たすという発想もなく、世渡りも下手でした。

冬場になると、家の前に水を張った洗面器を置いておいて、毎朝、凍った部分を積み重ねてかまくらを少しずつ作るという楽しみがあるのですが、ある朝、粉々に砕かれていました。ただ、寂しかったし、悲しかったです。

学芸会で劇をやるときにはいつも悪役でした。花咲かじいさんの時も、こぶとりじいさんでも私は悪役でしたが、役がつくのが嬉しくて嬉々としていました。何で俺だけが?ということも考えたことはありませんでした。

当時、私を理解してくれたり、慰めてくれたり、庇ってくれる人は一人もいませんでした。いじめられて、仕返しをするという事は一度も考えたことがありませんでした。

<つづく。次回、見知らぬ女性があらわれて出生の秘密を知らされる>


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