■The Untold Story of Emmett Louis Till | ツボヤキ日記★TSUBOYAKI DIARY

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■「The Untold Story of Emmett Louis Till」
(エメット・ルイス・ティルについて、あかされていない事実:和訳)


●サム・クックはどこまでも伸びやかで、バネのような力を潜ませたまま、軽やかにポップソングを歌う。かつて黒人のシンガーは、自分のレコードのジャケットにその姿を見せることは容易いことではなかった。ある時期のスター歌手でさえそれは同じで、彼らのレコードジャケットは、白人女性のポートレートがほとんどだ。そんな中、ジョニー・テイラー等、名歌手を巣立たせたゴスペル・グループ「ソウル・スタラーズ」の中からソロとなったサム・クック。白人受けを意識せざる得ない状況下の中で誰にも媚びることなく、リズミカルでポップな曲を数多く残している。誰にも真似の出来ないサム・クック独特の歌い方、それは、スタラーズで伝授された唱法のアレンジ。わずか33歳でこの世を去った彼のヒット曲は多く、「ユー・センド・ミー」「ワンダフル・ワールド」「ツイスティン・ザ・ナイト・アウェイ」など、歌詞の中にも多くの含みを持たせた忘れる事のできない名曲が揃っている。

ディープソウルの好きな曲を上げろといわれれば即、3曲。ギータ・デイヴィスの「フォー・ユア・プレッシャス・ラヴ」、シスターズ・ラヴ「ディス・イズ・ラヴ」、そしてサム・クックの「チェンジ・イズ・ゴナ・カム」だ。
サムの「A Change Is Gonna Come チェンジ・イズ・ゴナ・カム」は、ボブ・ディランの「風に吹かれて」に触発されて出来た不朽の名曲だと思っている。

 

  
 

彼は1962年~63年頃に、ボブ・ディランが歌った「風に吹かれて」を聴いたと思われる。この曲の中にある人種差別に関する意識に彼は奮い立たされた。差別なき社会が来ることを願った自分たちの気持ちを歌っている、と。こんな曲を白人が歌ったのか、と彼は思い立ち、自らもその2年後に「チェンジ・イズ・ゴナ・カム」を歌った。

1963年、ボブ・ディランはKu Klux Klanを名指しで弾劾し、1955年の夏に起きた悲劇を歌った。
「私が忘れる事の出来ない、この少年に起きた酷い悲劇。彼の肌の色は黒。そして、彼の名前はエメット・ティル。~私は、朝刊を見た。しかし、私はそこに裁判所の階段を笑いながら降りてくる兄弟を見ることが耐えられなかった。」-The Death Of Emmett Till-

その翌年、1964年8月4日、3人の市民権労働者ジェームズ、アンドリュー、マイケルが、ミシシッピで殺された。今年、判決がようやく下り、当時釈放された犯人に極刑が科せられた。
映画「ミシシッピー・バーニング」 に描かれた事件だ。
同年12月11日、「メロディが口笛になって口を突いて出てくるんだ」と語ったサム・クックは、LAのモーテルで射殺死体で発見。享年33才。誰もが愕然とした、しかしそれだけだった。射殺した犯人が刑に服したという記録を私は知らない。約2か月後の2月21日、マルコムX射殺。

 

 


 

では、時代を遡ろう。ディランが歌った1955年の夏。
当時14歳だったエメット・ティルは夏休みを向かえ、シカゴの自宅からミシシッピ川に沿ったデルタに住む大叔父を訪ねる旅行に喜び、はしゃいでいた。
彼の母は、白人の人々と出会った時に問題が起こらないように最善の注意を促し、彼にどのように振舞えばよいのか、その行動についても綿密なアドバイスを行なった。母は、わかっていた。今、自分たちが住んでいるシカゴと、これから息子が旅に出かけるミシシッピ周辺では人種に関する環境は極めて異なる、と。
ミシシッピでは、1882年以降、明らかにされているだけで500件以上の黒人たちがリンチにかけられていた。そしてこれから息子が行く親戚の住むデルタにおいては、更に人種差別により殺人の例があった。白人対黒人という人種間の緊張は高まり、黒人の有権者を登録するように運動を続けていた人物2人が殺されていた。クー・クラックス・クランと同様に、別の白人優越論グループまでもが、彼らの優位性を持続させるために動き始めていた。

1955年8月21日
エメットは、ミシシッピのマネーに到着。大叔父モーズ・ライトの家でくつろいでいた。
8月24日
少年は、マネーの小さな町中に行き、いくらかのキャンディを買うために、ブライアントの店で立ち止まった。店に入る前に、外にいた少年たちがティルに、店の従業員だったキャロリン・ブライアントと話すことができるものならやってみろと挑発した。彼は店に入って、いくらかのキャンディを買った。そして、そこで何があったのか。証言では、キャロリン・ブライアントに対して、エメットは口笛を吹いた、と。しかし、別の証言では「さよならベイビー」と。別の証言では「バーイ」と挨拶した、と。
3日間が何事もなく過ぎた。しかし、4日目の日曜日朝早く、キャロリンの夫ロイ・ブライアントと母違いの弟ミラムが、ライト家のドアをノックした。手元にはピストルがあった。
ミラムは、モーズ・ライトにシカゴから3人の少年が来ているのかと、尋ねた。ライトは、彼らをティルが眠っている部屋に案内した。男はティルを起こして、服を着るように命じた。
ライトは、ティルを連れて行かないよう嘆願するが、ミラム等のティルに対する激しさは治まらなかった。彼らはティルを伴い、家を出る時にライトにこの事を誰かに話せば、お前を殺すと脅した。数時間後、ティルの母親はこの誘拐の知らせをライトから受けた。彼女はシカゴ新聞にことのあらましと共に息子の失踪を知らせる。地域での探索が実行され、ライトの証言でマネー地区の保安官はロイ・ブライアントとJ. W. ミラムを誘拐の容疑で逮捕。

 

 

 

 




 

3日後に、ティルは発見された。エメットは、原型を留めないほど無残に殴られた挙句、性器を切断、有刺鉄線を首のまわりに固定され、34キロを超える綿繰り機の重しをつけ、タラハッチー川に投げ入れられていた。エメットの顔はあったが、ライトが確認したのは少年が身につけた服だった。
母親は、何が彼女の息子に起きたのか世界中に知らせる事を望んだ。彼の右目は行方不明のままだった。鼻は形がなかった。頭に穴が開いていた。
シカゴでの葬儀には5万人が参列した。葬儀に際して、エメットの母親は柩を開けるように命じた。激しい殴打で無惨に崩壊したエメットの顔が全米向けの新聞に掲載され、衝撃が走った。

何故、エメットが殺されたのか。白人の女性に黒人がしてはならないことをした。口笛を吹いた。
エメットは、アメリカの歴史上、白人優越意識の中で生みだされた白人側の主張するタブーを犯したとして、殺された。殺人者2人は逮捕。裁判は、全て白人男性のみの陪審員により、口笛を吹いたエメットが悪い、という判断が告げられ、彼らは法廷で無罪になった。確かに彼らは少年を殺害した。そして笑いながら裁判所の階段をおりてきた。

 

 

 

 




 

 

 

エメットの死は、60年代に向かって、アメリカの黒人開放、公民権運動の大きな後押しをしたことになる。無論、その後も理不尽な白人優越主義の横行が無くなることはなかったが、現在の社会構造と照らし合わせれば、この事件は確かに大きな変革をもたらした。

11年前、学生だったキース(写真:右)
はこの事件を知る。当時の新聞を見た世界中の人々、アメリカの黒人の多くがこの事件を忘れかけている、とキースは感じた。黒人開放運動の生け贄ともいうべき、この14歳の少年の惨殺事件が風化しようとしている。皆が忘れ始めている。キースは、55年に遡り、この事件の調査を開始した。そして10年が経った。彼は、ドキュメンタリー映画「The Untold Story of Emmett Louis Till」を昨年、完成させた。
 


 

 

1999年に「Till Freedom Come Productions」(LLC)=ティル・フリーダム・カム・プロダクションを立ち上げたキース=Keith A. Beauchamp(キース A.ボーシャン もしくはビ-チャム)。当時の状況、母親、関係者の証言を集めてドキュメンタリー映画の製作を目指した。この映画を制作するに当たり、当時見逃されていた事実、そして放置されていた証言等が明らかにされ、新たな真相が浮き彫りになった。昨年、司法省の再調査が決定した。そして映画は、今日、ニューヨークで一般上映となる。事件から55年が経った。(2004年/製作国アメリカ/アメリカ公開2005年8月17日NY公開/日本公開未定)

 

 


▲Trailer

Youtube site


●Directer&Screenwriter:Keith A. Beauchamp