アントワーヌ・ラヴォワジェ | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

9月に入りました。あたると痛いくらいだった日光が穏やかな秋の陽射しに変わってきました。野外で気持ちよく写生が出来る季節です。

写生をしていると自然「光ってなんだろう?」「なんで色が見えるのだろう?」と考えを誘われます。

自然を照らす太陽光線。昔からヒトは「光」について考えを巡らせてきました。

透明な黄金色の自然の「光」。これの再現は難しい。

印象派の大家クロード・モネは「光」と「空気」を油絵によって表現することに一生を捧げました。ルーアンのカテドラルの連作は、季節によって刻々と変わる石造りのカテドラルのファサードを絵具によって捉えようとした野心的な作品です。

光は粒子なのか?波動なのか?

19世紀までヨーロッパの人々は「光はエーテルという媒質により伝搬される」として「エーテル」の存在を仮定していました。

エーテル(aether ) の語源はギリシャ語のアイテールで「燃やす」とか「輝く」という意味です。

「エーテル」の仮定は17世紀の哲学者デカルトが中心となって唱えました。これに対してニュートンは「光=微粒子」説を唱えました。その後20世紀に入ってマクスウェルやヘルツさらにアインシュタインがエーテルを仮定しない、電磁波の一種説や、光波動説を唱えています。

めのおのような素人には解らない領域なのでこの辺で止めときますが、この地球上に降り注ぐ光の大部分は太陽光線であることは間違いありません。他の天体、星からの光も恒星ならば太陽と同じく燃えているから光を発するのでしょう。

この「燃焼」ということひとつとっても18世紀まで人々はやや神秘的な色合いを帯びた現象と考えてきました。17世紀に入り大陸ではデカルトが精神と物質とを別け、精神は不可解だが我々の眼に見える外界は大きさがあり分解できるものだからまず外界(物質)の検証から始めようとして演繹法による合理主義を築きました。

これに対し英国のフランシス・ベーコンは実験による検証を重視した実証主義を唱えました。英国ではニュートンが田舎に住みながら万有引力の法則を発見し世界の物理的認識に革命を起こしました。

しかし「物質」に関する人間の認識は17世紀でも依然として地水火風を基本とする錬金術の域を出ず、近代化学の元となる「元素」という考えが出るには18世紀のラヴォワジェを待たなければならなかったのです。


アントワーヌ・ド・ラヴォワジェ( Antoine-Laurent de Lavoisier )はパリの裕福な家庭の出です。が、フランス大革命でギヨチンにかけられ処刑されてしまった不運な化学者です。

ラヴォワジェは1774年質量保存の法則を発見し、物質の命名法を確立し、元素を定義づけました。水の成分が酸素と水素であることを説明し、燃焼が物質と酸素の結合により起こり、空気が酸素と窒素とからなることを明らかにしました。

1785年には水の分解実験に成功し、1789年に「化学原論」を発表して、33の元素表を示しました。ここで面白いのは「光」を自然界に広くあるひとつの「元素」と考えていたことです。酸素、窒素、水素と同じように「熱素」も元素のひとつとして挙げています。

ともかく、17世紀まで依然として錬金術の段階を脱していなかった人間の物質観が、ラヴォワジェによって初めて近代化学へと脱皮したのでした。
フランスの田舎暮らし-らぼあじぇ


これほどの業績を残し人類の文明に寄与した人物が大革命で断罪されギロチンで首を刎ねられたなんて!

なぜなんだ?大革命は因習的な宗教の支配から明るい理性で人類に光明を齎すものではなかったのか?ラヴォワジェほどの科学者が処刑されたと知った時、めのおは大革命というものを疑いました。

調べてみると、処刑の理由は化学者だったためではなく、ラヴォワジェが徴税吏であったこと。徴税請負人の娘と結婚していたことにありました。

裕福な家に生まれたものの化学に興味を持ち、高価な実験用具を買う為に徴税請負人という職業に就き、長官ジャック・ポールーズの娘と結婚しました。妻のマリー・アンヌはラヴォアジェを助けるために科学を学び、英語を習得し最新の科学論文を翻訳します。さらに絵を学んで実験の詳細をスケッチして記録に残しました。

この科学で結ばれた仲睦まじい夫婦の様子は革命期の大画家ジャック・ルイ・ダヴィッドが美しい絵に残しています。

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ラヴォアジェはルイ16世支配時の1791年に国家財政委員に就任し、フランスの金融・徴税システムを改革しようとしました。普通、徴税請負人というのは市民から正規の税金のほかに高額の手数料を取り立てるために革命派からは人民の敵として眼の仇(カタキ=吸血鬼!)とされていました。

ラヴォアジェは徴税吏でありながら人民の負担を軽減しようと努力していたのですが・・・。

1794年5月8日の革命裁判所の審査で死刑の判決を受け、その日のうちにギロチンにかけられました。

実際は、大革命のさなか、入浴中にシャルロット・コルデーという女性に暗殺されたジャン・ポール・マラーの逆恨みにより処刑されたというのが定説です。

マラーは革命家になる前化学者であり、その論文審査をラヴォアジェが学会の依頼で行いますが、定量的実験を行わず、実験に拠る実証を積み重ねた上帰納法により結論を導き出すのではなく、憶測ばかりの内容であったためラヴォアジェは承認しませんでした。過激派に走ったマラーは、このことを後々まで恨みに思い、徴税吏を口実にラヴォアジェを逮捕し処刑してしまったのです。

このとき、数学(天文学)者のラグランジェは「この頭を切り落すのは一瞬の出来事であるが、これほどの頭脳を得るには1世紀あっても足りない」と嘆き悲しんだというエピソードは有名です。

前回の投稿で触れた ピエール・サムエル・デユポンの息子エルテールはラヴォワジェの友人だったのでアメリカ合衆国に移住後、化学会社デユポンを設立しました。

革命の実行者は理想主義者ばかりでなく時に権力欲と憎悪とを理想や主義に名を借りて満たす輩が多いことに眼をつむってはなりません。

日本は幕末にフランスのエンジニアを招聘し横須賀に製鉄所(実際は造船所)を建設しました。これは幕府の小栗上野介の尽力によるものと言われています。小栗は勝海舟とともに咸臨丸で渡米し金と銀とが同じ価値で取引されていたのを為替交渉をし改めさせました。横須賀の造船所を、江戸に攻めのぼった西郷軍が爆破しようとしていたのを、勝海舟と江戸城明け渡しの交渉の際、西郷に日本の財産だからと思いとどまらせたのも勝が小栗の国益のために奔走した姿を知っていたからでしょう。

しかし、小栗上野介は筑波山麓の田舎に隠棲していたにもかかわらず西郷軍の下士官のひとりに河原に引き出され首を刎ねられてしまいました。私怨によるものだったと司馬遼太郎は書いています。