今週の刃牙道/第153話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第153話/絶対的無双

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

隊長の島本が死に、STATの乱れた統率をナンバー2の田沼が立て直す。いちど車から離れて、チームごとに車と車のあいだをはさみこみ、武蔵の出現を抑えようとしたのである。しかしそうすることで、島本に続く指揮者の位置が明らかになってしまう。車のうえにいた武蔵は田沼を瞬殺する。射撃にかんしては、武蔵のたくみなコントロールにより囲ませて、おそらく感知しているにちがいない、射撃それじたいより「ひとを撃つこと」への不慣れと会わせて、いままでまったく行われてこなかったのだが、田沼が脚をねらえと具体的に指示をだしたことで、はじめて発砲された。けれどもこれも跳躍でかわされ、着地した武蔵はついに二刀流を見せるのであった。この流れはたわむれに抜いてみたというようなものではない。車をつかった波状攻撃はもうつかえない。戦場が広いところになってしまったから、囲まれているその向こう側にひかえているであろう敵の数も増えることになる。また、時間がたてばたつほど、おそらく伝わっていない下の状況が上空のヘリに届いて、強力なライトで照らし出される可能性が高くなることになる。まあ、もう隠れることはできなくなったわけだから照らしても照らさなくても大差なさそうだが、とりあえずスナイパーなどがなかにいる可能性を考えたら、見つからないに越したことはない。というわけで武蔵は早期決戦を望んだにちがいないのだ。つまり、パフォーマンス的な意味でも技術的な意味でも、武蔵はここで本気を、あるいは本気になったぞという身振りを見せたのである。

 

 

ちょっと時間がもどって、出動前のSTATだ。指令を受けた直後なのか、脱着室で装備を整えているところである。前回斬られた田沼に、部下の誰かが「完全武装でいいんスかね」と、なんというか常識的なことを訊いている。相手は単独で、しかも日本刀一本もってぶらぶらしているだけのものだ。これに、こんな人数、こんな装備でかかっていっていいのかと。ここでいっているいいか悪いかというのは、たぶん特殊部隊としての誇りみたいなものにかんする事柄だろう。大学のサッカークラブOBとかの大人がチビッコ相手に試合をすることになって、両足使ってふつうにやっていいのかな、というふうにいうようなものだ。しかしそのチビッコたちは実は超天才集団かもしれない。つまり、この部下は武蔵の実力を理解していないのである。

田沼は、その日本刀をもつのは誰かと問う。そこで部下は、まさかほんとうに相手があの宮本武蔵だと信じているのかと問い返す。田沼は的確に答える。信じられるかどうかはどうでもいい、重要なのは「上」がどういっているかであり、宮本武蔵だといえば宮本武蔵であり、リンカーンだといえばリンカーンだと。それを疑ってみても、任務を遂行するうえではなんの足しにもならないし、それどころか害しか及ぼさないだろう。部下はまだ納得がいかない。そんな相手に実弾の銃を使うというのも、前代未聞のことだからだ。しかしそれも命令である。考えても意味はない。自分たちはいわれたことをやるだけである。田沼の論理性というか合理性というか、徹底した思考法に、ほとんどの部下たちは好感を覚えているようである。この描写はけっこう重要だ。彼らは、田沼の、ある場合では「融通がきかない」とされるかもしれないほどの実直さ、論理性やそれに基づいた迷いのなさ、決断力、こういうものを、好感をもって信頼しているのである。

 

 

その田沼があっさりと両断された。人数や兵器の強力さに恃みながら、被害は甚大であり、まだ武蔵はかすり傷ひとつ負っていない。というかもっといえば、発砲すらろくにできていない。もちろん、させてもらえない、ということだ。そこに精神的な追い討ちをかけるように、武蔵が二本目の刀を抜く。両手を高くあげて刀をクロスさせたようなかまえだ。構えじたいの意味とか効能よりも、これは明らかにそのメッセージ性を意識したものである。こんなに斬られて、相手は無傷、島本も田沼もやられた、ここで二刀流・・・という具合に、彼らは状況を悪い方向に認識するよう仕向けられている。彼らが逆転する可能性はまだまだいくらでもある。ひとりが発狂して、爆笑しながら銃を乱射しはじめたら、武蔵だってどうなるかわからない。しかし、そういうふうにはさせてもらえない。もはやこの状況では二刀流がどれだけ強力なものかということはほとんど意味がない。ただたんに、いままでだってあれだけ強かったものが、まだ強くなりうるのかと、そういう印象さえ与えられれば、パフォーマーとしての武蔵的にはじゅうぶんなのだ。

上にあげていて刀をおろした姿は、有名な肖像画のアレとまったく同じだった。STATは、そこに至るまでの理屈は理解できなくても、それがたしかに宮本武蔵本人であることを理解したのである。

 

 

武蔵は動くなという。動けば本人かほかの誰かの首が飛ぶと。これもまたずるいというかうまいというか、武蔵らしい発言である。何列かうしろにいるようなものも、こういわれては動けない。本人が斬られなくても、じぶんが動くことによって別の仲間が殺されるかもしれないのだから。そしてその「誰かの首が飛ぶ」ということにかんする説得力は、いままでの殺戮からしてじゅうぶんなわけである。

次に武蔵は手近のものに「頭」は誰かと訊ねる。島本、田沼ともに、隊長っぽい発言をした瞬間に殺されている。通常であればナンバー3にあたる誰かが次の指揮官にならなければならないが、その誰かを含めて、もちろん名乗りをあげることなどできない。それはつまり、そいつを斬るということなのだから。

ここにはもう「頭」はいない。ため息をついてから「終了(おわ)り」を宣言する。「くるま」に乗って撤退せよ、残ったものは斬ると。

岩間率いる放水車つきの100人と同じく、彼らは武蔵の命令にしたがうしかない心理状態にされている。そうして彼らは皆車に乗り込み、一列に並んで帰っていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

あらら、帰っちゃったよあのひとたち・・・。どうやらヘリにはスナイパーは乗り込んでいなかったみたいだ。というか、スナイパーがいたら、少々暗くてもスコープであちこち見ているうちに装甲車のほうでなにやら騒ぎが起こっている、くらいのことは気づいただろう。最後までヘリからの照射がなかったことを考えると、ヘリは完全にライトアップ係だったということなのだろう。武蔵の脱力ダッシュはバキのゴキブリダッシュと酷似している。ということは、ゴキブリのように見失いやすい動きであるはずだ。最初に武蔵がいたところからこれを照明係が見失ったのが、STAT側の最初にして最大の失敗かもしれない。彼らは武蔵のもとにいきなり複数の装甲車であらわれているから、まず武蔵が発見され、それを視認し続けるものがいる状態で指令が行き渡り、出動ということになったはずだ。12台の装甲車で街中探し回るわけにはいかないからである。ということは、武蔵捕縛の部隊がああいう広い場所だということもわかっていた。武蔵の実力を彼らが見誤り続けていることは、もちろんほめられたことではないのだが、部下がいっているように、常識の訴えかけるところでは、やたら強い、刀をもった危ないおっさんひとりを捕まえるのに、100人の専門家を実弾つきで用意して、たりないとは考えられないわけである。もちろん、バキ世界の住人たちの強さを知るわたしたちからすれば、いやいやなんでスナイパー用意してないの?となるところだ。しかしどうだろう、街で包丁もったひとが暴れているとなったとき、完全武装の100人がテロ対策用の装甲車に乗ってあらわれれば、じゅうぶんすぎるほどじゅうぶんだというふうにならないだろうか。

 

 

今回も彼らは、岩間率いる100人と同様、武蔵の指示にしたがうかたちで、みずからたたかいに幕を下ろすこととなった。これからは放水車のときの100人を岩間チームと、今回のものを島本チームと呼ぶことにするが、両者でもいくつか細かいところでちがいはあったが、武蔵がやってることは基本的にいっしょだ。ひとことでいえば「頭を斬る」ということだけだ。しかしここにはほかにもいろいろな意味が含まれる。たとえばそれは、「頭でなければ斬られない」ということだ。岩間チームのときは、岩間を斬ったあと、メガネの隊員の盾を九つに分断していた。これもまた今回の二刀流同様パフォーマンスなのだが、同時にここには「メガネの隊員は斬られていない」という事実も含まれている。盾を一瞬で、あんなに細かく切る技量がありながら、メガネは生還できたのである。それは、彼が頭でなかったからである。集団を相手にした場合、武蔵はつねに「突出した個人」を斬ることになる。ほとんどのばあいそれはリーダーなわけだが、襲いかかってくるものももちろんそれに含まれる。大塚のころにもやっていた、名前を訊ねる前置きは、慣習的なものもあるだろうが、武蔵の側から相手を「突出した個人」として認めたと、つまりこれから斬るということの宣言であったわけである。そしてこれは同時に、「突出しなければ斬られない」ということも意味する。これが、斬られることへの恐怖心と接続したとき、集団を相手にした際の武蔵の戦略は完成する。相手のすべてを、斬られたくない、斬られることがこわい、そういう心理状態に持ち込むことができれば、役職的な頭さえ仕留めてしまえば、彼らが突出してくることはまずないのである。こうなっても実は彼らは依然として有利であることにかわりはない。ただその有利を生かすためには、全体のぶぶんとしてみずからを認識しなくてはならない。日本刀との真剣勝負に勝利した極真空手創始者の大山倍達はかつて、片腕を捨てろと書いたことがある。片腕を斬っているあいだは、相手はほかのぶぶんを斬ることができない。だから、胴体や頭部などの即死するような箇所以外をむしろ斬らせて、その間に確実にしとめろと。この理論でいけば、警察側にも勝機はあった。要するに、武蔵が同時に攻撃できるのはせいぜいふたり、その間はほかの誰も斬ることができない。そのあいだに彼らは武蔵を撃てばよいのである。しかし片腕はわたしの痛みで済むものだが、集団において斬られ役になる彼にも命が、そして恐怖心があるのだ。とはいえ、その斬られ役がじぶんではない可能性もあるし、任務を優先させることを考えたとき、恐怖を克服するものも出てくるかもしれない。厳しい訓練と統率は、原始的な恐怖心では抑えられない可能性がある。だから武蔵はつねに隊員個々人に訴えかけるような話法を用いる。「頭は誰か」と問うこともそのひとつだ。隊員からすれば、こたえたくないという以前にその必要がない。いまは複数の人間で武蔵とたたかっている最中なのだから。しかしこの問いかけは、絶えず人数の有利に返りかけるプロとしての彼らの意識を、「頭でなければ斬られない」という安堵に引き戻す。武蔵は頭を探している、したがって頭でないものを探してはいない、いまじぶんに武蔵は注目していない、こういうことを彼らがうっかり考えてしまった瞬間、武蔵の計略は完了するのだ。またこういうばあいは、全員が同じ思考になっていなければ意味がない。ひとりだけやる気になってわっとかかっていっても、ほかのものがボケッと突っ立っていてはただ無駄に死ぬだけなのである。

そうして武蔵は集団の心理を掌握する。岩間チームのときは一喝して道をあけさせ、悠々と去っていったが、今回は警察側が退散することになった。ちがいとしては、岩間チームが武蔵の指示に対し、道をあけるだけであとは「なにもしない」を選択したのと、島本チームはみずからすすんで武蔵から離れていった、ということになる。岩間チームのときには、岩間の死体を仏さんと呼び、それを放っておく隊員たちを諭すような口調で、他人事のようにいっていたが、今回も、まるでこの勝負の結果を判定する外部の審級のようなものが宿っているかのような口調で、「終了り」を宣言していた。地下闘技場における光成のようなポジションだ。岩間チームの場合は、その非当事者的な語り口に戦闘の終了を感じてしまったようなところがあった。もはや勝ち目がない(とおもわれる)武蔵が、急に緊張をほどいて、他人事のように仏さんについて語りだしたのである。飲み屋でいままで言い争っていたひとが急に笑顔になって肩を組みはじめ、まあまあ、とりあえず乾杯しようぜ、とかいってきたときのような感じである。そういうとき、じっさいはまだ感情的になっているのにうっかり笑ってしまうということはあるだろう。武蔵はそうやって相手をコントロールしている。このとき相手は、武蔵の一挙手一投足に注目し、同時に、それによって対応を決めようとしている。これは指示を待つ状態と形状的に変わりがない。またいままで見てきたように生命の危機という点からも、彼らにはこの指示を拒む理由がない。かくして彼らは武蔵を指揮者としてその指示にしたがってしまうのである。ただ、「とりあえず乾杯しようぜ」といわれて、うっかり笑いながらジョッキを出してしまうことはあっても、「あ、タバコないや、ちょっと買ってきてくんない?」といわれて笑顔で立つものはいないだろう。岩間チームがうっかり武蔵を行かせてしまうのは前者にあたるが、今回の帰宅は後者レベルの行動になる。彼らが武蔵の操作によって武蔵を指揮者として無意識にとらえてしまっていることはまちがいない。しかしそこから具体的な行動を起こすまでにはかなりの径庭がある。道をあける、武蔵から距離をとる、これくらいのことは、反射的なもので説明がつく。しかし、整列して車に向かい、ドアをあけ、ドアをしめ、定位置に座り、生存者が全員乗ったかどうかを確認し、速やかに出発すると、ここまでのことを個人の無意識に行うことはかなり困難である。

これにかんしては情報がたりないので、はっきりいうことはできないが、いくつか仮説はおもいつく。もっとも考えられるものとしては、彼らが武蔵のいうとおり「撤退」することを最適の行動ととらえたということである。なぜなら、田沼と部下のやりとりからわかるように、彼らは武蔵の実力を見誤っていた。だから何人も斬られた。このまま特攻を続けても、倒せるかもしれないし、全滅するかもしれない。いずれにしてもじぶんたちは作戦の立て方をまちがえてしまったのだという確信は、彼ら全員に共有されていたはずである。だから彼らは武蔵の指示にしがみつく。いままで考えてきた通りの心理状態で武蔵の撤退の指示を受け止め、しかもそれはじぶんたちからしても適切なものにおもわれるわけである。

 

 

今回田沼が脱着室で示した態度は、合理的というか思考停止というか、彼らの一貫性と弱さを示すものでもあった。「上」がいうことを大義とすることで、発砲をはじめとした行い難いことを訓練通りスムーズに行うことができる、ということは毎週見てきたことだ。げんに田沼がしっかり指示を出した直後のSTATはかなりまともな動きを見せていた。しかしこれは逆にいうと、それがなければ機能不全になるということである。集団である以上、各自がそれぞれの価値観と尺度で行動していてはなにも達成することができないし、集団でいる意味もない。だから一貫性は欠かすことができない。しかし流動的な現場で指揮が失われてしまえば、それはばらばらになってしまう。隊員たちが田沼のいうことに好感を覚えているらしい描写も印象的である。「上」がいうことを守り、実行することがじぶんたちの任務であるということにかんして、彼らは誇りをもって仕事をしているのであり、同時にそういう思想を貫徹する田沼という人物にも、彼らは好意をもっているのだ。だがこれは切り捨てられた。毎週書いていることだが、戦というのは社会契約の書き換えということであって、これは武蔵からの挑戦でもある。その常識、価値観はほんとうに正しいのかという、結果としては突きつけになっているのだ。

田沼は、武蔵がほんものの武蔵かどうか、問題ではないという。実弾も、使えといわれているのだから使うと。しかしそれはほんとうに考えなくてもよいことだったろうか。もし、たとえば阿部総理が、クローンのことまで伝えていたら、こんな作戦では臨まなかったのではないか。事情が事情だけに、最後まで伝えられないということはあるだろう。しかしそのことが、前回考察したように、最終的に達成すべき目標はなにかという点にかんして、指示をあいまいにしてしまった。逮捕すべきなのか殺すべきなのか、あるいは逮捕のポーズだけとりあえずして最終的には殺すべきなのか、おそらく総理は扇情的な言葉で鼓舞するばかりで、具体的には伝えなかったはずである。彼らはただ空気を読み、忖度しただけである。だが背後の事情をなにも知らないものたちが、すべてを汲み取ることなどできるだろうか。警察だって軍隊だって、特権は与えられていても、無許可の殺戮が認められているわけではない。彼らの属する社会集団の認める範囲で特別な権利が与えられているだけだ。だから、田沼をはじめとする象徴的な「頭」は、いってみれば一貫性を通してこの権利の枠組みをあらわしている。しかしこのたたかいを「戦」ととらえる武蔵は、別の枠組みにしたがって動いている。このとき、こちらの枠組みではとらえきることのできない見えないものが迫ってくることになる。これに対応するためには、彼らへの指示は表面的すぎたのである。