以下の続き。

【思索】弱音アレルギー その1

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先日、弱音アレルギーについて書いた。


その中で、どういう人が弱音アレルギーになるのかについて一例を挙げた。


それは、小さい頃から弱音を吐かせてもらえなかった人だ。


それ以外には同じ症状を持つ人はいないだろうか。



個人的に思い当たるのは、上とは逆に、親に弱音を聞いてもらえないで育った人だ。


すなわち、親から愛されないで育った人だ。


このタイプの人も弱音アレルギーになりやすいような気がする。



私が過去に知り合った女性には、何故か、三人きょうだいで、上と下に男の兄弟を持つ人が多かった。


その女性たちがそろって言うのが、以下の一言だ。


「私は親から愛されずに育った。兄は大事にされ、弟は可愛がられるが、私はいつもほったらかしだった。」


そして、彼女たちはこう言う。


「だから、私は弱音を吐かないで、一人で頑張ってやってきた。もう親の愛はいらない。」


こういう境遇で育った人は、弱音というものを嫌がることが多いようだ。



子供はすぐ親に弱音を吐く。


そうすれば、親が聞いてくれると思っているからだ。


そして、実際、聞いてもらえることが多いだろう。


しかし、世の中には、この弱音を吐いても、親にまったく聞いてもらえなかった人もいる。


そして、そういう人の中には、親に対する恨みや不公平感を、弱音に転嫁して、それに対して深い憎しみを覚えている人が少なからずいるのではなかろうか。


そして、そういう人は、大人になって、会社の同僚などが弱音を吐くのを聞いたりすると、極端な嫌悪感を覚えたりするのではなかろうか。


そういうとき、その人は内心でこう思う。


「この人は、弱音を吐けば、聞いてもらえると思っているのか。私は親に自分の弱音を聞いてもらえなかったのに、何故、この人の弱音を聞いてやらなければならないのか。」


もしかしたら、その人は弟だけが可愛がってもらっていた過去を思い出しているのかもしれない。


そして、それがただの甘えであることを自分と相手に証明しようとする。


その人はこう言い返す。


「そんなことを言って、同情してもらいたいわけ?」


この人の言っていることはある意味で正しい。


しかし、それは理論上の話であって、残念ながら、現実的には、あまり適切な返答ではない。



これと同じことは「助け合い」にもいえる。


「助け合い」に対する考え方はふたつある。


1.困ったときはお互い様。困ったときはお互いに助け合いましょう。


2.お互いに困ることがあっても、助け合うことはやめましょう。あなたが困っても、私は助けないし、私が困っても、あなたに助けてもらう必要はありません。


どちらも、その考え方に矛盾がないという点において間違いではないが、人生というものを長い目で見ると、後者の考え方は机上の理論であって、現実的ではないように思う。


もし、それが、スポーツのような限られた状況において適用されるのであれば問題はないのかもしれないが、人生のような長丁場において、それと同じ考え方は適用できないのではなかろうか。


例えば、ある人が、長い人生において、上の考えを人生のポリシーとして、その道を突き進んでいくとどうなるだろうか。


私は、その人は個人主義者にならざるをえないと思う。


社会問題には何の関心も持たず、ただひたすら自分の成功、出世を追いかけるしかなくなるのではなかろうか。


何故ならば、他人と助け合わないで出来ることは、個人的なことに限られるからだ。


そして、それを一人で達成しようと思ったら、その人は個人的な努力を無理やり積み重ねるしかなくなるのではなかろうか。


私は、その人は完璧主義者にならざるをえないように思う。


それはしんどかろう。


そして、人間が完璧になることはないから、最後にその人を待っているのは人生の敗北だろう。


そう考えてみると、私はこう思う。


もし、その人がもう大人であって、親から自立して暮らしているのであれば、一度、自分の人生を見直して、負わなくてもよい荷は一度降ろしたほうがいいのではなかろうか。


それが出来たら、その人は、次に、弱音アレルギーの克服を新しい人生の目標にしてはどうか。


その方が、その人自身、ずっと幸せになれるような気がするのだが。


以下に続く。


【思索】弱音アレルギー その3

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