以下の続き。


【思索】弱音アレルギー その2

http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10045644485.html



世の中には2種類の人間がいる。


A.弱音を吐く人
B.弱音を吐かない人


弱音を吐かない人は2種類ある。


B-1.弱音を吐く必要のない人
B-2.弱音を吐きたくても吐けない人


弱音を吐く必要のない人は2種類ある。


B-1-a.弱音を吐かなくてもよいぐらい心の強い人。
B-1-b.弱音をはかなくてもよいぐらいの恵まれた環境にいる人。


上の人たちの具体的な例を挙げて言うならば、


B-1-a.は、例えば、仏陀やイエスのように悟った人。
B-1-b.は、例えば、美人や金持ちの人。美人は「なんで私はモテないの?」という弱音を吐いたりはしないだろう。


この両者は、弱音を吐かないという点において、一見似ているけれども、中身はまったくの別物だ。


そもそも、B-1-b.は弱音を吐かないでいられる状況が限定されている。

美人で貧しい人が、自分が貧しいことに対して弱音を吐かないとは限らないし、金持ちで容姿の醜い人が、自分の容姿が醜いことに対して弱音を吐かないとは限らない。

あるいは、逆に、詐欺師やストーカーに狙われて、別の弱音を吐くかもしれない。

あるいは、美人の人が交通事故でその美貌を失うということはあるし、金持ちの人が投資の失敗で全財産を失うということもある。

結局のところ、ある人があらゆる局面において、弱音を吐かないでいられるかどうかは、手持ちのカードによるのではなくて、B-1-a.の人のように、その人自身の心の強さによるのだと思う。



その上で本題に入るのだけれども、B-1-b.の人の中にも、やはり弱音アレルギーの人はいるように思う。

彼らのすべてではないだろうけれども、一部の人は、弱い立場の人の弱音を嫌う。極端な例になると、ひどく恐れたり、憎んだりする。



例えば、こういうことはあるのではなかろうか。


ある会社に、Aさん、Bさんという2人の社員がいた。


ある日、二人が雑談をしていた。


そのとき、Aさんが話の流れの中でこう言った。


「実は俺の家はすごく貧しかったんだ。それで・・・。」


そんな話をしていると、だんだんBさんの顔が曇っていった。


そして、Bさんはこう言った。


「もしかして、それって自己憐憫?


俺に同情してもらおうとしてる?


大体、そんなの貧乏なうちに入らないよ。


世界には今にも飢えて死にそうな人たちだっているんだ。


それに、金持ちの人だって、好き好んで、金持ちに生まれてきたわけではないんじゃないかな。」


実はBさんの家は大変な大金持ちだった。そして、Aさんはそれを知らなかった。



上のようなケースにおいて、Aさんも、Bさんも、それほど間違っているようには、僕には思えない。


ただ、ご本人たちの、生まれてから今日までの、人生の立場とそこから得てきた視点が違うだけの話なのだろう。


その上で言うのだけれども、今回の本題に話を絞って言えば、Bさんの言っていることはそれはそれで正論だろうけれども、どこか弱音アレルギーの匂いがする。



津軽の旧家に生まれ育った太宰治は、彼の「東京八景」の中でこう書いていますね。


「不当に恵まれているという、いやな恐怖感が、幼時から、私を卑屈にし、 厭世的にしていた。金持の子供は金持の子供らしく大地獄に落ちなければならぬという信仰を持っていた。 」


昔から、太宰治のこの手の文章に対して、極端に共感を覚える人と、極端に嫌悪感を覚える人っていますね。


後者の例として、同じく旧家の家柄に育った三島由紀夫などは有名ですね。


僕自身、三島由紀夫のエッセイをいくつか読んだことがあるけれども、この人が若者向けの雑誌などに気軽に書いたエッセイなどを読むと、どうも弱音アレルギーみたいなものが感じられる。


太宰治と同じように恵まれた立場にありながら、それとは対照的な、「不当に恵まれていて何が悪いのだ」という、彼の開き直りの気持ちが伝わってくるのだ。


そして、僕には、その開き直りの実体は、あの弱者アレルギーにあるような気がしてならない。


彼はそれを振り払おうとして、肉体改造や自衛隊入隊をしたりしてみたりしたのだけれども、結局はそれを克服することが出来なかった。



上のようなことを考えてみて、僕はこう思う。


「弱音は鍛錬によって克服することが出来るが、弱音アレルギーは鍛錬によって克服することは出来ない。」


むしろ、「鍛錬」はそれを助長するだけなのではないか。



ところで、この三島由紀夫は、太宰を嫌う一方で、同じく作家の稲垣足穂を尊敬していた。


彼は、市谷の自衛隊の駐屯地に乗り込む前の澁澤龍彦との対談の中で、自分はこれから愚行を行い、世間の笑いものになるかもしれないけれども、そんな中で唯一分かってくれるのは稲垣足穂だけだと断言していた。


しかし、その自衛隊での事件後、稲垣足穂は「三島星堕つ」を書き、その中で、三島由紀夫はものの哀れを知らなかったと述べている。


僕はなるほどと思う。


弱音アレルギーを克服するために必要なのは、「鍛錬」ではなく、「ものの哀れ」だろう。


何故なら、弱音アレルギーの人に一番欠けているのはそれなのだから。


であるのにもかかわらず、弱音アレルギーの人は、三島のように、しばしば鍛錬に走ってしまう。


不当に恵まれている人は、誰にでも出来る鍛錬をやり抜くことで、自身が受けた恵みにまとわりつく不当さを払拭しようとする。


それは誰のためにかと言えば、自分のために。


そして、終わりなき挑戦に自らを駆り立ててしまい、ただひたすらその症状を悪化させてしまう。


それでは心が苦しかろう。


心の苦しみから抜け出す唯一の糸口は、自分に欠けているものについて悟ることだ。


イエスは言った。


「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい。」

For it is easier for a camel to go through a needle's eye, than for a rich man to enter into the kingdom of God.
(ルカによる福音書 18 25)


恵まれている人がすべきことは、自身の恵みの不当さを鍛錬によって正当化することではなく、自身の持つ恵みを社会に役立てることだろう。


世の中において一番哀れなのは、ものの哀れというものを知らない人なのかもしれない。



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