今日、わしは弱音について書いてみようかと思うたんじゃ。


ほいじゃが、考えてみたら、弱音について書くのはあんまり面白うないかもしれん。


なんでか言うたら、この弱音っちゅうのは、昔からいろんな人がターゲットにしとってから、語りつくされとるけんじゃ。


ほいじゃけん、わしは、今日、それとは逆のこと、つまり「弱音を吐かんっちゅうこと」について書いてみようと思う。




世の中には弱音を吐く人ておるね。


すぐに疲れたとか、辞めたいとか言う人。


そういう人の問題については、本やらなんやらでいろいろと言われておるね。



その一方で、世の中には、この弱音を吐く人を極端に毛嫌いする人もおるね。


つまり、他人が弱音を吐くのを見ると、極端な嫌悪感を示す人。



一般に、ある人が極端にひどい弱音を吐いたり、それを他人に一方的に押し付けたりしとったら、誰でもそれに対して嫌悪感を抱くじゃろうし、あるいは反撃を加える者もおったとしてもおかしくないわのう。


ほいじゃが、わしが、今、ここで言わんとしとるのは、そういう一般的なケースじゃのうて、その極端なケースじゃ。


世の中には、弱音の程度とは関係なく、少しでも弱音らしいものを嗅ぎつけるとと、それに敏感に反応して、その弱音を吐く者に対して見境なく嫌味や皮肉を言って攻撃を仕掛ける人っておるような気がする。



わしは、昔から、弱音を吐く人とそれを嫌う人では、前者よりも後者の方が不可解じゃった。


ちゅうのは、わしは、どちらかといえば、前者の弱音を吐く方で、後者のような人じゃなかったけん。


で、そのわしは、若い頃、自分の何でもない発言に対して、その後者の人から急に不意打ちを食らって、しばしば面食らうことがあった。


知人と雑談をしておると、わしの適当な発言に対して、相手の人から何か過剰な反応が帰ってくるんじゃ。


わしからしたら何てことはない話なんじゃけど、その人に言わせると、それは「弱音」であって、それを言うのは「許せないこと」になるらしい。


弱音と言われたらそうかもしれんが、それはせいぜい雑談で言った程度のことで、そんなに過剰に反応せんでもて思うんじゃが、その人に言わせると、それは大問題らしい。


その人は許せんっちゅうて言うんじゃが、こちらからしたら、なんでわしがその人に許してもらわんといけんのじゃろうって思うわけじゃ。


それで、若い頃のわしは、上のようなことがある度に、その対処に困ったもんじゃった。


それで、わしはこの不可解なものについて、ときどき考えておった。


そして、大分経ったある日、わしはようやくその正体を見抜いたのじゃ。


要するに、それは一種のアレルギー反応じゃ。


例えば、蕎麦アレルギーの人が、一粒でも蕎麦粒を食べると、全身に蕁麻疹か何かが出るっちゅうのと同じことじゃ。


世の中には弱音と言うものに対して、極端に拒絶反応を示す人がおる。


で、その人は、弱音らしきものに出会うと、それがどんなに些細であろうと、過剰に反応する。


そして、それから逃れようとして、あわてて極端に身構えたりする。


(要するに、拒絶反応が出るんじゃのう。)


そして、相手のことも考えんで、あわてて過激な言動に出て、それを押し返そうとする。


(要するに、防御反応が働いてしまうんじゃのう。)



わしは、ここで、それを「弱音アレルギー」と名づけよう。


で、世の中には、この弱音アレルギーを持っとる人が少なからずおるんじゃなかろうか。


じゃあ、この弱音アレルギーちゅうのは、どんな人が持っとるんじゃろうか。



ひとつの例としてあげると、例えば、小さい頃から弱音を吐かせてもらえずに育てられた人の中には、このアレルギーを持っとる人って少なからずおるんじゃなかろうか。


例えば、しつけの厳しい家庭で育てられた人。例えば、小さい頃から弱音を吐くと親にぶん殴られて、力づくで黙らされて育った人。


わしは他人の家庭環境についてはよう知らんが、そういう環境で育った人の中には、親の意に反して、結局、他人の顔色を窺うだけの人になってしまった人ってけっこうおるんじゃなかろうか。


そういう人は、意識の自分は親に押し付けられたものを一生懸命に守ろうとするんじゃけど、無意識の自分はいまだにそれに同意しとらんのじゃなかろうか。


で、そういう人は、表向きは弱音は吐きませんっちゅう態度を通しておっても、内心ではいまだに弱音を吐いてみたい衝動に駆られとるのが実情なんじゃなかろうか。


そうしたときに、その人の横で、そういうトラウマのない人が能天気に弱音を吐くと、その人は、それに対して極端な嫌悪感や拒絶反応を覚えてしまったりするんじゃなかろうか。


多分、その人は「私は弱音を吐かないで頑張っているのに、なんであなたは弱音を吐くのよ!」って言いたいんかもしれん。


ほいじゃが、それは「弱音を吐けない人の事情」であって、「弱音を吐く人の事情」ではなかろう。


本人もそれが分かっておるけん、それをストレートに言い表せんのじゃなかろうか。


それでも何か言おうとすると、結局は、嫌味や皮肉のような屈折した言い方しか出来なくなるんじゃなかろうか。


わしはどうもそんな気がするんじゃが。



で、もしそうだとした場合、その人にとって、本当の問題は何じゃろうか。


それは、


「何故、世の中には、弱音を吐く人がいるのか?彼らを黙らせるためにはどうしたらいいのか?」


ではなくて、


「何故、私は、弱音を吐く人を許せないのだろうか?そのために私はどうしたらいいのか?」


ではなかろうか。


人間、自分を克服出来んうちは、他人を克服することも出来んじゃろう。



参考:
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
And why beholdest thou the mote that is in thy brother's eye, but perceivest not the beam that is in thine own eye?

自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向って、『さあ、あなたの目にあるおが屑をとらせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
Either how canst thou say to thy brother, Brother, let me pull out the mote that is in thine eye, when thou thyself beholdest not the beam that is in thine own eye? Thou hypocrite, cast out first the beam out of thine own eye, and then shalt thou see clearly to pull out the mote that is in thy brother's eye.

(ルカによる福音書 6 41-42)


ところで、上のタイプとは別に、弱音を吐く人を嫌う人がまだおるように思うが、それは次回じゃ。



以下に続く。

【思索】弱音アレルギー その2

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