神奈川県立歴史博物館で「没後100年 五姓田義松―最後の天才―」を観た! | とんとん・にっき

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神奈川県立歴史博物館で「没後100年 五姓田義松―最後の天才―」を観てきました。観に行ったのは9月26日のことです。


「神奈川県立歴史博物館」の建築の概要は、以下の通りです。


建物は横浜正金銀行本店として、妻木頼黄が設計、遠藤於菟が工事監督を務めた古典主義様式建築です。1900年(明治33年)に着工し、1904年(明治37年)に完成しました。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の火災により建物のドームが焼失します。1947年(昭和22年)には、横浜正金銀行を引き継いだ東京銀行が発足し、東京銀行横浜支店として使用されました。1964年(昭和39年)に神奈川県が建物を買い取り、建物の増築・改修工事を行い、関東大震災で焼失したドーム屋根の復元を行いました。1967年(昭和42年)3月20日に神奈川県立博物館として開館しました。1969年(昭和44年)、建物が「旧横浜正金銀行本店本館」として国の重要文化財に指定され、1995年(平成7年)には敷地が「旧横浜正金銀行本店」として国の史跡に指定されています。

(「ウィキペディア」による)





五姓田義松については、神奈川県立美術館の常設展でいつも展示してあるので、何度か観ていました。以前の、神奈川県立歴史博物館で開催された五姓田義松関連の展覧会には、以下のようなものがありました。


神奈川県立歴史博物館で「ワーグマンが見た海―洋の東西を結んだ画家―」展を観た!

神奈川県立歴史博物館で特別展「五姓田のすべて 近代絵画の架け橋」を観た!


神奈川県立歴史博物館によると、「没後100年 義松真発見―最後の天才―」の見どころは、以下の通りです。


①圧倒的なヴォリューム

総出品点数はなんと800点を超える大展覧会。空前絶後の規模で、天才画家五姓田義松の全貌を明らかにします。

②幻のコレクション、およそ100年ぶりの里帰り

これまで幻となっていた水彩画など63件を一挙初公開!当館コレクションから別れておよそ100年ぶりの里帰りです。

③画家を知るためのヒント

普段なかなか公開されることの少ない画家の生活。その生きざまを伝える家計簿や販売記録、様々な文書資料などを一挙初公開。








天才画家・五姓田義松の大回顧展、ここに開幕
五姓田義松を現代のスポーツ選手にたとえれば、国内リーグで頂点を極め、海外プロリーグに挑戦したパイオニアでした。安政2(1855)年に生まれた義松は、10歳のとき、横浜在住の英国人報道画家チャールズ・ワーグマンのもとに入門します。まだ世間のことなどよくわからない少年が、大人の誰もがまだ習得できていない西洋の絵画技術を学び始めます。それから10年も満たずしてすべての技術を習得、時に西洋文化礼賛の明治時代がはじまったころです。義松は皇室や政府の依頼制作をつとめ、洋画家のトップランナーとなりました。そして明治13(1880)年、パリへと旅立ちます。このとき、義松は世界に自身の名をとどろかせようと果敢に挑戦し、名声を獲得したのです。しかし、その後、流行のうつりかわりの早さに流れ、その名声はほとんど忘れられ、今となっては知る人ぞ知るという存在です。本展覧会は、謎多きその生涯と実像を、800点を超える作品や資料などから明らかにするおよそ30年ぶりの大回顧展です。これまで幻となっていた水彩画など63件も一挙初公開いたします。当館コレクションから別れておよそ100年ぶりの里帰りです。そのほかにも、画家を知るためのヒントとして、普段なかなか公開されることの少ない画家の生活、その生き様を伝える家計簿や販売記録、様々な文書資料なども初公開いたします。会場内に満ち満ちた作品や資料を通じて、天才義松の神髄を“真”発見してください。


「神奈川県立歴史博物館」ホームページ


追記:展覧会の「図録」はまだできていなくて、予約購入、郵送の手続きをしてきました。