目黒区立美術館で「もうひとつの川村清雄展」を観た! | とんとん・にっき

目黒区立美術館で「もうひとつの川村清雄展」を観た!



目黒区立美術館で「もうひとつの川村清雄展―加島虎吉と青木藤作・二つのコレクション」を観てきました。観に行ったのは11月29日。 江戸東京博物館で開催されていた「川村清雄展、記念式典・特別鑑賞会・レセプション 特別招待&図録プレゼント」企に申し込んだら、運良く招待状が届き、10月9日に観に行ってきました。その時の記事は、以下にまとめてあります。


江戸東京博物館で「維新の洋画家 河村清雄」を観た!


「もうひとつの川村清雄展」が開催されていることを知ったのはその時で、「もうひとつの・・・」というタイトルから、単に江戸博の展覧会を補完する程度の展覧会だと、安易に考えていました。しかし、観ないことには始まらない、行かなければと思っていたのですが、やっと行くことができました。今回の展覧会の出品は、目黒区立美術館が所蔵している川村清雄の作品40点ほど、また那珂川町馬頭広重美術館の所蔵作品が約50 点。他に装丁関係が50点、出されていました。今回、図録は買わなかったのですが、代わりに目黒区立美術館が「川村清雄を知っていますか? 初公開・加島コレクション展」を、2005年2月から4月にかけて開催していたというので、その時の図録を購入しました。


以下、「維新の洋画家 川村清雄」の図録「ごあいさつ」より

川村清雄は、最も早く海外で本格的な油彩画技法を学んだ日本人画家の一人でした。黒船来航前夜の江戸に幕臣の子として生まれ、明治維新で江戸を逐われた徳川宗家に従って静岡に移住しました。明治4年(1871)徳川家派遣留学生としてアメリカへ渡航、その後もフランスとイタリアに学び、都合10年余りの留学生活を送りました。帰国後の清雄は画塾で後進を育てつつ、明治美術会などに作品を発表しました。清雄の作品の特徴は、江戸人の持つ伝統的な美意識を西洋起源の洋画世界に溶け込ませた、和魂洋才ともいえる画風にあります。西洋の油彩画が培ってきた重厚で堅牢な色面と、日本画を思わせる軽快で瑞々しい線との融合は、他の画家の追随を許しません。しかし、西洋の油彩画を受容し消化する途上にあって揺れ動く明治の洋画界は、日本的な洋画世界の構築を目指す清雄流の挑戦を理解しませんでした。やがて画壇から遠ざかり忘れられた存在となっていった清雄でしたが、主君徳川家達や勝海舟をはじめとするゆかりの人びとは、清雄の人物と芸術を心から愛していました。彼らの庇護のもとに珠玉のような日本的洋画の制作を続ける孤高の画家・川村清雄の姿は、「画家」よりも「絵師」と呼ばれるにふさわしいものであったでしょう。


川村清雄の作品、ほとんどが油彩で描かれている点、扇面、短冊や漆盆に至るまで油彩で描かれています。同時にその時代背景、明治元年、清雄17歳の時に江戸開城、明治維新という時代です。江戸博では、海舟の没後直ちに執筆が開始された「形見の直垂」、目黒では、「太平記巻五 大塔宮熊野落事」の一場面を描いた「村上彦四郎(村上義光錦御旗奪還図)」が、展覧会の目玉でした。また川村のベネチア滞在時代のスケッチ類のその描写力は、小さな作品ですが圧巻でした。あわせて目黒では「川村清雄の装幀意匠」というがあり、明治・大正・昭和に掛けて川村が係わった60数点の装幀作品が展示されていました。


展覧会の構成は、以下の通りです。

1.川村清雄の修学時代

目黒区美術館が所蔵する川村の海外での修学時期の作品(フランス、イタリアで描いた作品)を紹介します。

2.加島虎吉と川村清雄

加島コレクション:出版に関する取次業を営む加島虎吉と川村清雄の出会いから、加島が支援し入手した作品、戦火を潜り抜けた加島家によって守られ奇跡的に助かったっ幻の作品群、当館所蔵の「加島コレクション」を紹介します。また、至誠堂を創業し、出版に関わった虎吉を紹介、店のあった日本橋界隈の出版事情にも触れます。

3.青木藤作と川村清雄

加島虎吉より少し遅れて、川村と懇意になった青木藤作は、栃木県氏家町出身の資産家で、徳富蘇峰の思想に傾倒し生涯交流を深めました。徳富蘇峰の引きあわせにより川村も青木藤作を知り、交友がはじまり、青木藤作 の元には、比較的晩年に近い時期のよい作品が集まっていきます。青木藤作のコレクションが寄贈されたことにより建設された栃木県那珂川町馬頭広重美術館には、こうした経緯から川村の作品が多数おさめられています。本展で、加島コレクションと青木コレクションが初めて一緒に紹介されることになります。当館の作品の中にも、この時期に近いものも多数含まれるので川村の晩年の仕事を検証する良い機会となるでしょう。

4.『新婦人』『新小説』・装丁に見る川村の美意識

川村清雄は、おもに大正期になると、当時人気のあった『新小説』などの文芸雑誌の表紙のデザインを多く手がけ、はなやかなこうした冊子ともに、「大正名著文庫」などの地味な書籍だが、手の込んだ装丁にも力をふるいました。この時代特有の手の込んだリトグラフ印刷も必見で、川村の装丁に関する仕事を検証します。


以下、「もうひとつの川村清雄展」の作品

「村上彦四郎(村上義光錦御旗奪還図)」、主な構図にあわせて横長に切り抜かれ、周囲を油彩で「たらし込み」的に表現した琳派風の葛の葉が取り囲み、内側の画面と場所により前後しているのがおもしろい。下部、現在では暗灰色の部分には錫泥が使われていたことが修復作業でわかった。描かれているのは、「太平記巻五 大塔宮熊野落事」の一場面。山伏姿で落ちのびる大塔宮(護良親王)が芋瀬(奈良県吉野郡)にさしかかると、芋瀬の庄司(地方長官)は、一行の中で名のある臣下を差し出すか、錦の御旗を渡すかすれば、これを合戦の末取り逃がした証拠にして一行を見逃すと提案。親王らは御旗を渡し芋瀬を無事通過した。その後、一行から遅れて村上彦四郎義光が庄司一行と遭遇。「下人」が持つ御旗をみて激怒した村上がこれを奪い返したところ。「すなわち御旗を引き奪いて取、剰旗持ちたる芋瀬が下人の、大の男を掴で、四五丈計り抛たりける」


「鸚鵡」、加島家の人々にとり、最も印象に残っていた作品だったという。蝶に驚き片翼をひろげたオウムが大胆な構図で平滑な朱塗りの板に油彩で描かれている。絵の具を定着させることが難しいと思われる組み合わせだが、川村がどのように油彩を扱い、下地の準備をしたのか定かではない。残念ながら経年による絵の具の浮き上がりや剥落が生じている。モデルのオウムは川村の買っていた物、またはその剥製と思われる



「ベネチア風景」の制作年は不明。作風から川村清雄がイタリアから帰国した明治15(1882)年以降のものと思われる。水辺と舟、建物とさまざまなポーズをとる人物など、川村らしい巧みな筆致がみられる。現実の風景を描いたと言うより、複数の記憶やスケッチをもとに構成したものと思われる。



「高砂」、中央に相生の松(根がひとつで幹がふたつ、末永く続く婚姻などの信頼関係の象徴)、この松の精である美しく年老いた翁と媼、亀など、謡曲「高砂」の情景が描かれている。添えられた和歌の「たつ(龍)」や「君のみよ(三与)」から、昭和3(1928)年(辰年)の昭和天皇即位大典との関わりも創造できる。



「鴨」、中央に余白を残した構図に、油彩の特長を生かした巧みな鴨の描写が配されている。これらの鴨も川村が家で飼っていた可能性が高い。画面左部分の鴨と微妙な細部をのぞき同じポーズの下絵があるが、この作品よりかなり大きく描かれ、拡大縮小用に方眼がひかれている。



「小督」、漆塗りの板に自在な筆致で描かれた平家物語の一場面。場面は「巻第六 小督」の後半部分。平清盛の怒りをかい、出奔して隠れ住む小督の局を、小督への思いを断ち切れぬ高倉帝の命を受けた弾正少将弼仲国(笛の名手で合奏相手だった小督の音をよく知る)が、琴の音を頼りに小督を見つけ出したところ。仲国が扉をたたくと「想夫恋」の音がやみ、小女房が扉を開き顔を出している様子が描かれている。



布袋は七福神とされ、招福神として信仰されるが、917年に没したとされる唐末に実在した僧。居所を定めず奇行が多く、生前すでに弥勒の化身共観られていた。逸話や俗信が多く親しまれている。布袋を慕うこどもたち(唐子)とともに描かれたり、祭りの際のからくり人形などにつくられている例も多い。布袋袋を挟み二人の子供と戯れる姿がユーモラスだ。左下、大正末から昭和期と思われる「可者武良」の落款下には、和歌に添えていた「知春園」の印が押されている。



明治4(1871)年、川村は勝海舟らの後押しで、徳川家留学生としてアメリカに留学した。幼児から親しんでいた絵画に専念する決心を固めたのは翌年。明治6(1873)年にはパリに渡り、オーラス・ド・カリアスに師事、同年に帰国命令が下された後も私費留学で残留した。「水差し」は1875年5月の年紀がありパリ時代のもの。明治9(1876)年、イタリアへ渡った川村は4月からベネチアの美術学校に入学、明治11(1878)年頃まで在籍した。



「もうひとつの川村清雄展―加島虎吉と青木藤作・二つのコレクション」

川村清雄(1852 嘉永5 ~ 1934 昭和9 年)は、江戸、明治、大正、昭和を生き、明治以降もっとも早い時期に海外で学んだ画家です。徳川家の給費生として津田梅子らとアメリカに留学し、のちに渡ったイタリアではベネチア美術学校で本格的な西洋画を学びます。西洋画の卓越した技術を持ちながら、日本の絵画を研究、絹本に金箔下地に油彩で、歴史や故事などのテーマを描き、その異彩を放つ画風で注目を集めました。勝海舟や小笠原長生などの支援を受けながらも、時代から孤立ししばらく人々の記憶から遠ざかっていましたが、1980 年代には川村清雄研究が盛んになり、いくつもの成果が報告されています。その一つ1994 年静岡県立美術館での回顧展は当時大きな反響を呼びました。

「明治以降、海外で学び活躍した作家の初期の作品」を収集のテーマに取り上げている目黒区美術館では、川村清雄のフランス、イタリア時代(1876-1881)の貴重な素描5 点を開館後まもなく入手しています。そして幸運にも2004 年度に、川村の代表作で行方が分からなかった、屏風仕立ての「村上彦四郎」を含む大正時代から昭和にかけての作品33 点を、川村清雄とゆかりのあった加島虎吉ご遺族からご寄贈いただきました。当館では、このコレクションを翌年「川村清雄を知っていますか?」展として初公開し、小規模展ながらもいくつかの話題にも上りました。この展示から7 年経過した現在までに、川村の大型の作品がいくつも発見されるなどさらに川村研究も展開しています。


そうした中、今年の秋に江戸東京博物館(静岡県立美術館に巡回)では大規模な「川村清雄」展が開催されます。当館ではこれに合わせ「もうひとつの川村清雄展」を同時期に開催し、当館のコレクションに加え、さらに栃木県那珂川町馬頭広重美術館に収蔵されている、青木藤作が集めた川村作品もあわせてご紹介します。

江戸東京博物館が川村の全体像を総括することに対して、当館の展覧会では、目黒区美術館と那珂川町馬頭広重美術館の二つのコレクションに合わせ、さらに当館のコレクションが、出版業を営んでいた支援者加島虎吉の旧コレクションという意味から、川村がかかわった書籍や冊子の装丁デザインにも光をあてていきます。こうした当館ならではの展示により、江戸東京博物館とは違う視点からスポットを当て川村清雄の魅力に迫ります。


「目黒区立美術館」ホームページ


とんとん・にっき-ka15

「川村清雄」を知ってますか?

初公開・加島コレクション展

2005年2月16日~4月10日

図録

発行日:2005年2月25日

編集・発行:目黒区美術館





とんとん・にっき-ka16 「もうひとつの川村清雄展」

入場チケット








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