三井本館の話と、三井記念美術館で「数寄の玉手箱 三井家の茶箱と茶籠」を観た話! | とんとん・にっき

三井本館の話と、三井記念美術館で「数寄の玉手箱 三井家の茶箱と茶籠」を観た話!


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三井記念美術館は、1929年(昭和4)に完成した旧三井本館を改修して美術館にしたものです。たまたま5月16日に、「都市楽師、日本橋に現る」というプロジェクトで、高橋由佳のクラリネットと岩附智之のパーカッションの演奏を三井記念美術館の入口、ガラスの壁面に三井本館の柱型をエッチングした、三井タワー1階アトリウムで聴くことが出来ました。三井本館の設計は、ニューヨークのトローブリッジ・アンド・リビングストンという設計事務所です。「今度の震災で日本は決して弱っていないということを見せるために、急いで三井の本館をつくりたい」と、三井合名理事の團琢磨が企画したという。コーネル大学を卒業して、ヨーロッパを見学して廻っていた松田軍平は、日本で関東大震災があったことをヨーロッパで知ります。当初「ジョン・ラッセル・ホープ」というアメリカン・ボザールの住宅設計では有名な事務所にいた松田は、三井本館の仕事をアメリカの事務所に頼んだことを聞き付けて、三井物産のニューヨーク支店長に紹介してもらい、「トローブリッジ」へ入所します。



しかし入所して1ヶ月位で三井の仕事が中止になり、その間に36階建ての「エクイタブル・トラストビル」の設計に1年間携わります。日本で初めて超高層ビルに関わった建築家というわけです。それはそれとして、その経験があったことで1年後、三井本館の設計が始まったときには非常に役立ったと、松田は述懐しています。その後1年ぐらい図面のまとめ役をして、つまり実施設計を終えて帰国します。帰ってからも松田は、三井本館の仕事に携わります。現場監督、というか、現場監理で、主任はアメリカ人で、松田は次席でした。当時週給60ドル、月に250ドルもらっていたというから凄い。三井の重役よりも、日銀総裁よりも高かったそうです。まあ、それはいいけど、当時の日本の現場をまとめるのはそうとう大変だったようです。細かいところまで全部、図面を書いて、工場で製作してきて現場で組み立てる。今でいえばプレファブリケーションです。書けないものはモデルを作る。その方法で、日本の建築界の施工方法は格段の進歩をしたと松田は言います。



松田軍平が建築事務所を開設したのは、1931年(昭和6)9月のことです。1931年(昭和6)に8年間のアメリカ留学を終えて帰国した平田重雄が松田軍平の元を訪ねて、翌日から一緒に働くことになります。翌日、製図板の上に久留米の石橋徳次郎邸の平面図が載っていて、「君、このプランにスパニッシュスタイルのエレベーションをスケッチしてごらん」と、松田から言われたという。この石橋徳次郎邸(現石橋迎賓館)と、下田の三井高修邸(旧下田御用邸)の設計依頼が、松田事務所の生まれた直接のきっかけでした。三井高修は明治以後の三井十一家と呼ばれる本家筋のうち、小石川家の当主でした。伊豆の下田の6万坪の敷地に鉄筋コンクリート造の別荘を建てるというものです。松田がニューヨークにいる頃出会って、最初は東京の自宅の一隅に立てる彫刻のアトリエを頼まれたが、それは実現しませんでした。三井小石川家の当主は、彫刻や絵画にも手を染める多彩な文化人だったという。下田の三井高修邸は、スパニッシュ様式で設計され、当時の最高の職人技が結集されて1932年に完成、伊豆下田の旧御用邸として現存しています。



「三井高棟伝」によると、昭和3年における三井各家当主には、総領家1名、本家2名、連家8名、計11名の三井家各家当主の名前が出ています。総領家、北家の当主は八郎右衛門高棟(72歳)で、三井合名会社業務執行社員社長とあります。連家、小石川家の当主は高修(37歳)で、三井鉱山取締役とあります。そんなこんなで、やっと高棟の名前が出てきました。1942年には松田平田設計事務所と改称しています。そして、日本銀行本店新館の仕事を依頼されるまでになります。




三井記念美術館で「数寄の玉手箱 三井家の茶箱と茶籠」を観てきました。江戸後期から近代にかけて三井家で仕立てられた茶箱・茶籠約30点に、草花図襖絵などを交えて展示してありました。茶箱・茶籠とは、持ち運びができる小型の箱や籠などに、喫茶用の茶道具一式を組み込んだものです。なにも小さくして持ち運びしなくてもよさそうなものですが、そこはそれ、茶の湯をたしなみ尽くした人が行き着く、究極の趣味世界と言われるだけのことはあります。薬師寺の古材で作ったからってなんになる、なんて言いっこなし。自らの趣味にあったものを作り、好みにあったものを探し出す、というから凄い。「数寄の玉手箱」とは言い得て妙です。







会場構成は大きく3つに分かれています。初めに江戸時代、三井高祐(たかすけ)(1759-1838)の頃の茶箱、次ぎに幕末・明治時代、三井高福(たかよし)(1808-85)の頃の茶箱と茶籠、そして近代、三井高朗(1837-94)から三井高棟(1857-1948)の頃の茶箱と茶籠となっています。高棟は建築にも数寄を発揮します(展示室6)。やはり圧巻は「唐物竹組大茶籠」、全部出して広げるとこんなに入っていたのと驚きます。三井高福愛用の品だそうです。縦42cm横30cmの大きな茶籠を開けると、たたまれた更紗の下に、服紗や釜敷などの裂(きれ)や紙類が入り、その下にさまざまな茶道具、香道具が40余点ぎっしりと詰まっています。 そんなわけでそうお金がかかるというものではなく、完璧な趣味の世界、徹底的に愉しみ、そしてここまでこだわるという執念が見事です。


自慢せずとも、道具類を好みに仕立てて揃え終わって、一人ほくそ笑むこと必定。館蔵の茶箱と茶籠全てを一堂に展示するのは今回が初めてだという。いやはや、素晴らしい!展示室2では、新指定重要文化財の伝千種作「能面 童子」が展示してありました。また円山応挙の作品、「若松図屏風」「竹図屏風」それぞれ六曲一双のうち一隻、「破墨山水図」「海眺山水図」などが展示してありました。「檜、槇、秋草素襖」十面は大きな作品でした。気になったのは、襖の手掛けの位置が見た感じ1メートルぐらいありそうで、ちょっと高いように思われましたが、あんなものなんでしょうか?座敷に合わせて今では手掛けの位置は75~85センチがちょうどいいと言われていますが。



「如庵」について
「如庵」は、明治41年(1908)に三井家の所有となり東京・麻布今井町の三井邸内に移築、昭和3年、北家十代の三井高棟が如庵披きの茶会を行いました。昭和11年には旧国宝に指定され、昭和12年(1937)から5年の歳月をかけ大磯の三井家別荘に移築され、昭和26年(1951)に国宝に再指定されました。その後、昭和40年に名古屋鉄道に売却され、現在は、愛知県犬山市に移築されています。三井記念美術館では、京都造形芸術大学教授中村利則氏の監修のもと、可能な限り忠実に再現した「如庵」の内部がご覧いただけます。「如庵」では、季節に合わせて茶道具を取り合わせ、茶道具の本来あるべき空間での美しさを堪能していただきます。年6回ほど展示替えを予定しております。(三井記念美術館HPより)




「能面」について
この度、当館所蔵の三井家旧蔵能面54面が「旧金剛宗家伝来能面」として、一括して平成20年度、国の重要文化財に指定されました。これまで、孫次郎・翁・顰・不動の4面が重要文化財に指定されていましたが、今回の指定ではこれらの追加指定という形での一括指定となりました。内訳としては、54面のうち既指定の4面に、重要美術品40面が重要文化財に、未指定10面が新しく重要文化財に指定され、54面を1件として一括指定となりました。(三井記念美術館HPより)



三井記念美術館


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