ウラジミール・ナボコフの「ロリータ」を読んだ! | とんとん・にっき

ウラジミール・ナボコフの「ロリータ」を読んだ!

 

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日本人の大人で、「ロリコン」という言葉を知らない人は(正確な意味は別にして)ほとんどいないでしょう。本来は「ロリータ・コンプレックス」を短く詰めたもので、「ロリコン」、あるいは「ロリータ趣味」は、わが国の映画や漫画などに、そして「オタク文化」至るまで裾野は広いようです。ロシア生まれのアメリカの作家、ウラジミール・ナボコフの小説で、中年の男性が年の離れた美少女を愛するという、「ロリータ」に由来していることは言うまでもありません。ナボコフの意志には関係なく「ロリータ・コンプレックス」は、「10代前半の女性に特別な感情を抱く」という「心理学用語」とされています。

 

 

ウラジミール・ナボコフは、1899年にロシアのサンクト・ペテルブルグに生まれます。父親はロシアの地主で皇帝に仕える身でしたが、そこを飛び出して暗殺されます。ナボコフは、3歳からイギリス人女性の家庭教師に英語を習い、やがてケンブリッジ大学へ入学、ロシア革命のために帰国を断念します。フランスやドイツで亡命者として転々とした生活を送り、ロシア語で小説を発表していました。そして30年代の終わりに英語作家に転身することを計画し、1940年にアメリカへ渡ります。アメリカではコーネル大学で教職に就き、ロシア文学を教えます。また蝶の採集にも熱心で、大学の休暇期間は妻の運転する車で蝶の採集のために全米を旅行し、その時の旅行体験が「ロリータ」の筋書きや細部にイカされているという。蝶の採集の成果は、ハーバードやコーネル大学のコレクションにもなっているようです。

 

 

アメリカに渡ったナボコフは教職のかたわら、英語による小説を発表し始めます。1948年から「ロリータ」を書き始め、1953年12月6日に完成します。しかし、性的に倒錯した主題を扱っているため、アメリカでは幾つかの出版社から次々に出版を断られます。そのため「ロリータ」の初版は、悪名高いポルノ小説の出版社であるパリのオランピア・プレスから1955年9月に出版されます。同じ年の12月にグレアム・グリーンによって紹介され、また別の書評者が「ロリータ」はポルノ小説だと酷評して論争が起こり、注目の的となります。アメリカでは1958年に出版され、たちまちベストセラーになります。日本ではアメリカでベストセラーになった翌年、早くも1959年に大久保康雄による翻訳(河出書房新社)が出ましたが、この翻訳は誤訳が多いという批判があり、1974年に改訂版が出され、さらに手を加えて1980年に新潮文庫に収録されました。今回僕が読んだのは、2005年に新潮社から単行本として出た若島正の翻訳によるもので、新潮文庫(平成18年11月1日発行)に収録されたものです。

 

 

文庫本を読むというのは、巻末の「解説」を読む愉しみもあります。例えば最近では、倉橋由美子の「聖少女」は桜庭一樹、本谷有希子の「腑抜けども悲しみの愛を見せろ」は高橋源一郎、同じく「江利子と絶対」は一青窈 、堀江敏幸の「雪沼とその周辺」は池澤夏樹、同じく「熊の敷石」は川上弘美が「解説」を書いています。さて、ウラジミール・ナボコフの「ロリータ」は文庫で600ページもある長編ですが、なんと大江健三郎が「解説」(平成18年8月)を書いています。実は僕はそれを知って「ロリータ」の文庫本を購入した、といった方が正しいのですが。まず大江は、「21世紀最良の翻訳の一冊を早ばやとなしとげてしまった」と、若島正教授の仕事を讃えています。

 

 

「ロリータ」の主人公は、ヨーロッパからアメリカに亡命した中年の大学教授である文学者ハンバート・スチュアート。彼は、少年時代の死別した恋人がいつまでも忘れられません。その面影を見出したあどけない12歳の少女のドロレス・ヘイズ( 愛称ロリータ)に一目惚れをし、彼女に近づく為に下心からその母親である未亡人と結婚します。母親が不慮の事故で死ぬと、ハンバートはロリータを騙し、アメリカ中を逃亡します。しかし、ロリータはハンバートの理想の恋人となることを断固拒否します。時間と共に成長し始めるロリータに対し、ハンバートは衰え魅力を失いつつあります。ある日突然、ロリータはハンバートの前から姿を消します。その消息を追って、ハンバートは再び国中を探しまわります。3年後、ついにロリータを探し出しますが、大人の女性となった彼女は若い男と結婚し、彼の子供を身ごもっていました。哀しみにくれるハンバートは彼女の失踪を手伝い、連れ出した男の素性を知って殺害してしまいます。後に逮捕され、獄中で病死するのですが、ロリータも出産時に命を落とします。この作品はハンバートが獄中書き残した「手記」という形式をとっています。(出典:ウィキペディア)

 

 

松岡正剛によれば、ロリータとは“或る種の男”の心身に巣食ったニンフェットのことです。しかもその“或る種の男”とニンフェットとのあいだには、この小説の主人公の仮説によれば、ということはナボコフの仮説ということだが、最低でも10年、たいていは30年から40年の歳の差が必要であるという。ロリータになれるには、その少女が格別に美しいか、すこぶるコケットリーでなければならず、さらにはどこかに売春性を感じさせるのに、それをはるかに越える邪険なものが去来していなければならないのです。つまりは捉えがたき挑発性が間歇泉のように出入りしていなければならない、としています。

 

 

その若島正は、「ロリータ」は読者ひとりひとりによって姿を変える小説であるとして、「淫らな少女愛を津綴ったエロチックな小説を期待して読む人もいるだろう。さまざまな文学的言及や語りの技巧に満ちた、ポストモダン小説の先駆けとして読む人もいるだろう。話の内容はさておき、絢爛たる言語遊技こそがこの小説のおもしろさだと考える読者もいるだろう。・・・あるいはアメリカの一時代を活写した風俗小説として読む人もいるかもしれない」等々、読む人の興味の多彩さを挙げているが、「ここであえて言うなら、『ロリータ』の本当に凄いところは、そうしたすべての要素を含んでひとつの小説にまとめ上げている点にある」としています。

 

 

「ロリータ」は、スタンリー・キューブリックとエイドリアン・ラインにより二度、映画化されています。「ロリータ」の受容及び評価も、ポルノ小説まがいのベストセラーから、20世紀文学を代表する芸術的小説作品へ、現代文学の古典へと大きく変わりました。若島正は、「ロリータ」は何度も読み直すたびに新しい発見が次々と現れてくるような小説であると述べています。ナボコフは「ヨーロッパ文学講義」のなかで、「人は小説を読むことは出来ない。ただ再読することができるだけだ」という名言を残したという。文庫版では「ロリータ」再読の誘いとして巻末に注釈を付け、必ず再読の時にお読みいただきたい、としています。

 

「野心的で勤勉な小説家志望の若者に」と題した大江健三郎の「解説」ですが、ナボコフの「ロリータ」を「性愛の小説」という枠で括っています。「ナボコフの小説こそは、散文であれ私の内部に同質のもう一つの言葉の倍音をつねに喚起するものなのである。そして今度の『ロリータ』再々読が自分にもたらしたのは、私が17歳の時に出会った幻想のアナベル・リー、そして現実のアナベル・リーは自分から一瞬も去ったことがない、という認識なのだった」と述べています。

 

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朝日新聞:2019年3月16日