「ル・コルビジュエ展:建築とアート、その想像の軌跡」を観る! | とんとん・にっき

「ル・コルビジュエ展:建築とアート、その想像の軌跡」を観る!


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六本木ヒルズができてから新聞広告に混じって「HILLS LIFE」というエリアマガジンが入ってくるようになりました。大判カラー印刷で32ページもある立派なものです。今回は「ル・コルビュジエ展」が見開き4ページに渡って紹介されていました。まず渡辺篤史の建もの探訪@森美術館「ル・コルビジュエ展」、もうひとつはサイドストーリーとして「太陽の都市チャンディガール、ル・コルビジュエ最後の理想」という記事でした。また、これが凄い!「ル・コルビジュエを知る30冊」!こんなに出ているんですね、驚きました。しかも、最近出版されたものがほとんどです。「コルビジュエ人気、恐るべし」ですね。


六本木ヒルズ森美術館で開催されている「ル・コルビジュエ展:建築とアート、その想像の軌跡」を観てきました。このブログでも今まで何度か取り上げましたが。やはり「百聞は一見に如かず」ですから。いくつかの印象ですが、まず始めに、コンピューター・グラフィックが今回は大きな力になっていました。今までの建築の展覧会は時には映像も少しありましたが、ほとんどは図面と写真だけでしたので、一般の人にはちんぷんかんぷんで判らなかったのではないでしょうか。平面が立体になり、しかも空間が移動するということはCGの発達によるもので、建築を理解するのに最適なツールでした。



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また、絵画や版画、そして彫刻が多かったこと。もちろん、半分は今まで画家としてのコルビジュエを紹介することに力を注いでいましたから、その両方を知ることで、人間コルビジュエを知る手がかりとなったことでしょう。そして、やはり実物にはかないません。コルビジュエのアトリエ、マルセイユのユニテ・ダビタシオン、カップマルタンの小さな休暇小屋、それぞれ中に入れて、空間を体験できる、スケール感がよく判り、有意義でした。それぞれのセクションは以下の通り、10のテーマに分かれて展示してありました。


セクション1:「アートを生きる」
このセクションは、主に画家としてのル・コルビュジエが紹介されます。初期のピュリズム期の絵画作品を展示しています。油彩画「暖炉」(1918年)は、彼の抱いていた近代建築の原イメージだったのではないかと言われています。また、パリのナンジュセール・エ・コリ通りに現存するル・コルビュジエのアトリエ空間を再現したものがありました。


セクション2:「住むための機械」
1920年10月から1924年末まで彼が編集に関わり、全28刊が刊行された『レスプリ・ヌーボー』誌が展示してありました。彼の本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレですが、この雑誌のために作られたル・コルビュジエという名前が、後に世に知られることになりました。ドイツのヴァイセンホフ・ジードルンクを建設したとき考えられた近代建築の5原則、「ピロティ」「屋上庭園」「自由な平面」「水平に連続する窓」「自由な 正面(ファサード)」を発表しました。最小限の要素で建築を成立させるシステムとして考案されたドミノ住宅、モノル型住宅、シトロアン型住宅等は、ル・コルビュジエが考案した近代住宅建築の基本型でもあります。彼がデザインした車も展示してありました。



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セクション3:「共同体の夢」
「国際連盟本部の提案」(1927年)が、審査後に却下され、国際的なスキャンダルになりました。「ムンダネウム」(1929年)は螺旋状をしており、この構想が後のアーメダバードやチャンディガールの美術館に実現し、その後日本の「国立西洋美術館」(1955~59年)につながります。丹下健三の卒業設計で模倣されたと言われる、ソビエト政府から依頼された「ソビエトパレス」(1930-32,34年)の模型も展示してありました。



セクション4:「アートの実験」
このセクションでは主に後期の絵画と彫刻が紹介されていました。1928年以後、ル・コルビュジエは初期のピュリズムから離れて、絵画はより自由により情熱的になって行きます。タペストリーも多数制作され、壁画として考えられていました。赤や黒が多用され、絵画よりも鮮烈です。デッサン、絵画、彫刻、タペストリー、エナメル画、建築、都市計画というそれぞれの表現はル・コルビュジエにとって、すべて、一つの同じ事柄を様々な形で創造的に表現した物に過ぎないことがよくわかります。



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セクション5:「集まって住む」
1952年に、ル・コルビュジエは「マルセイユのユニテ・ダビタシオン」を竣工させます。巨大な直方体の集合住宅が、ひとつの都市であり、ピロティによって支えられています。ユニテの一戸分の住居空間を、2階建ての実物大模型として再現してありました。また、ル・コルビュジエの考えた「モデュロール」という尺度について解説してありました。また、「直角の詩」という版画のシリーズが壁面いっぱいに展示してありました。



セクション6:「輝ける都市」
彼は初めて都市に目を向けた建築家でもあります。1935年に出版した「輝ける都市」はル・コルビュジエの都市計画思想の原点であり、「太陽、空気、緑」がキーワードとなっています。多様な都市計画のなかから、「アルジェの都市計画」ほか、「ヴォワザン計画」「パリ都市計画」「300万人の現代都市」などの提案が映像で紹介されていました。



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セクション7:「開いた手」
1950年にインドのパンジャブ州の州都をチャンディガールに建設することを依頼されます。長いあいだ、都市の建設を夢見ていた彼は、この時から壮大な都市の建設に関わることになる。彼が携わった建築物は、州政府の中心機能を収容する「議事堂」、「合同庁舎」、「高等裁判所」からなる「キャピタル」です。「手が象徴するのは、人間の悠久の営為である」と考える彼は、これをチャンディガールの象徴としてもっとも重要な場所に「巨大な手のモニュメント」を設置しました。


セクション8:「空間の奇蹟」
ル・コルビュジエは、生涯の内に二つの宗教建築を建設しましたが、死後41年経って三つ目の作品が完成しました。一つ目はよく知られている「ロンシャンの礼拝堂」、二つ目は「ラ・トゥーレットの修道院」です。そして三つ目は、助手のジョゼ・オーブレリーによって監修され、2006年に完成した「サン・ピエール教会」(フィルミニ)です。建設経過の映像が見られました。




セクション9:「多様な世界へ」
ル・コルビュジエはインドのアーメダバードで住宅を2軒「サラバイ夫人邸とショーダン邸」、「繊維業者協会会館」を設計しました。また、アメリカでは「カーペンター視覚芸術センター」を、日本では「国立西洋美術館」を設計しました。「国立西洋美術館」は、ル・コルビュジエの事務所で働いていた前川國男、坂倉準三、吉阪隆生が実施設計に深く関わりました。このプランは1929年の「ムンダネウム」が原型ですが、コルビュジエの提案した全体案はついに実現しませんでした。


セクション10:「海の回帰へ」
1951年にル・コルビュジエが、妻イヴォンヌのために南フランスに建てた小さな小屋は、「カップマルタンの小屋」と呼ばれています。小屋は3.66メートル四方の小さなもの(およそ8畳間)で、中にあるのは二つのベッド、小さな仕事机、最小限のキャビネット、トイレと洗面台だけです。最後に到達した最小限の住まいが、今回の展示の目玉のひとつです。彼は、「おそらく、この家で生涯を終えることになるだろう」と語ったそうですが、1965年の夏、海で溺死、ル・コルビュジエはついに帰ることはありませんでした。享年77歳でした。



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