自由意志 | 空気の意見 

空気の意見 

過去の規制緩和による捻れた競争社会に、公正な競争を導入し、不当な競争から労働者を保護しよう! 介護福祉は国営化。国が労働者管理機構をつくり、労使へのアクセスとバックアップ、フィードバックを強化し、労働者達へのセーフティーネット強化の土台をつくろう。


 慰安所運営に旧軍は関与していた。
また高額な金銭をもとに慰安婦を口撃するのはよくない、与えられたもののなかには、
そういった報酬が紙くずになるか消失してしまった者もいる。
そもそも例え売春婦であろうと、人道的に考えれば、いくら合意や俸給があっても、
軍人達に次々と性商売を強いられ酷使されてよいはずがない。
慰安所で慰安婦が一人を相手している間に、他の軍人がドアの外に並び、
「はやくしろ」などとドアを叩いているような光景を、公娼であり、
通常の民間売春業と同一だと言い張るのは無理がないだろうか?
欧米の人間が性奴隷と考えるのも無理はないと僕は思う。
いくら、彼らも売春婦を利用していたとしても、旧軍管理運営の売春婦に多数の軍人が群がり、
性行為により酷使しているといった状況は、性奴隷そのものを連想させるのにたやすいことだ。

 大隊クラスの1000くらいを考慮して、
そこに10~30人くらいの慰安婦があったとすると、(秦郁彦氏の研究によると慰安婦は約2万人程度らしい)
一人でかなりの数の男性を相手しなければいけないのがわかる。
隊員300人に減らし慰安婦10人程度にしても結構な人数比だ。
もちろん全員が一度に利用したり、利用しなかったり、複数回利用したりと、実際とは違いこれはひとつの目安だ。
(秦氏は公娼と慰安婦が同じような位置づけとするべきだと述べているようだが、
 平時の民間売春業と、軍関与の慰安婦事業とを、同一視することはできない。
 そんなものは、軍政と旧日本国議会を一緒くたにするような乱暴な物言いだ。
 いくらもともとは売春婦だった個人を利用しているからといって、
 公娼においての売春婦と慰安所においての慰安婦は明確に区別されるものだ。
 もとは売春婦という彼女達の立場を根拠に同位置に設定することなどはできないだろう。
 そういった観点は売春婦だったという個人の事情に焦点を絞り、
 それぞれの制度や事業参画者などの違いを無視した暴論に思える。
 旧軍が慰安婦という新しい立場を創り出したことで、公娼と慰安婦は、
 つまり慰安婦は公娼と違いまったく別の存在になったのだと捉えなおされるべきだ。
 その証拠に慰安婦は公娼では考えられない俸給を得たが、
 それは慰安婦という立場上、労働の性質などから考慮すると獲得して当たり前のものだ)

 旧軍による強制連行がないのはいいが、強制性だけではなく酷使されたことや、
彼女達の自由意志に関わらず、慰安婦とされ、性行為を行わされたことも問題だ。
慰安婦達の性行為を受けた数や栄養、健康状態、慰安婦になった事情や経緯の詳細な調査資料、
例えば旧軍の資料がない限りは彼女達を旧軍が酷使しなかったという反証にはならないように思う。
それでも、健康状態がよかろうとも、
一度軍人が到来すれば過酷な性交渉をこなさなければならなかった労働状態も見逃せない。
(慰安婦の栄養状態が良好だという、米軍の資料があったということは聞いたことがあります)
狭義の強制性、だとか、広義の強制性だとかありますが、
ともかく、日本政府は広義の強制性はあったと認めている状態だ。
民間業者には悪いのがいた可能性を認めます、という逃げなのだろうけども、
慰安婦の戦地移送に協力し、規制などを設けていたのだから、
強制は悪徳業者がやったことで旧軍は無関係ですと完全に言い逃れできるだろうか?
実際、いくら旧軍が裁いたとはいえ、強制されて慰安婦にされたケースもある。
これは強制(労働)慰安婦ともいえるのではないか?
強制連行がないということが証明しているのは、それだけであるので、
その論旨を拡大して強制自体がなかったと摩り替えるのは誤魔化しに思える。
慰安所運営に関与し、強制的に連れてこられる慰安婦の存在も認識していたのだから。

 欧米からの非難の声もやけに誇大なものがまじったり、しょうもない糾弾や要請があるけれど、
欧米が重視しているのは、慰安婦の自由意志による訴えと、
ファシストに民主的な手続きが存在しているはずがない、といった考えや、
あるいは売春婦といえども非人道的な扱い、性行為の酷使があったという考えがあるのだろう。
 そもそも日本人は性問題にルーズかあるいは恥じるばかりに無視して逃げすぎている。
 現代の風俗嬢が「何本抜いた」とか豪傑ぶりを口にしても、たとえそういった商売であろうとも、
ある意味、過剰酷使されているケースが多いように感じる。
彼女達はプロとして頑張っているのだろうけれども、彼女達のそういった健気な姿勢がなければ、
過剰な性行為労働でしかないというケースがかなりある。
なぜ日本は人身売買などの問題で国際社会から「努力中」などといった不名誉なランクなのか一度考えたほうがいい。
エロスを追及するのはいいが、本人が納得していようが、人間の尊厳を貶めている行為は禁止するべきだ。

 性問題はネガティブで論争を巻き起こしやすい問題にも関わらず、
安部首相自身が内政問題のようにこれも変更しようと迂闊な話をするからいけなかった。
安部大将が突撃の声をあげたら、人はまばらにしかついてこないし、
大将自らすぐに謝罪するは、強制連行見直しも腰折れするはで情けないじゃないか。
一度やるとなったらやりとおせばいい。
「強制連行がなかったから、慰安婦は売春婦だし、旧軍の強制性も存在していない。(慰安婦への責任はない)」
と言い続ければいいのだ。
 安部首相が慰安婦問題を利用して、アメリカと協議し、北朝鮮問題を進展させるような道筋をつけるような、
戦略家ならいいのだが、それは期待できない。
いま慰安婦問題に新カードを出すなら、拉致問題や北朝鮮などが少しは好転する可能性はある。
そこにアメリカもわざわざ関わってくれるというのなら、アメリカを抱き込んで一緒に落としてしまえばいい。
米民主党が政権を取らぬうちにこういった慰安婦などの人権問題は、
米共和党とブッシュ政権のうちに進展させておくのも一つの手だ。
安部首相のせいで慰安婦問題が再度盛り上がり、北朝鮮との交渉がうまくいかなくなるのではないかと、
アメリカ政府は心配しているだろうから安部首相は訪米の時にでも、
ブッシュ政権と慰安婦問題を進展させた場合どのような戦略と交渉術を展開し有利に運べる見込みがあるか協議すればいい。
いまなら慰安婦問題を拉致問題や6ヶ国協議と絡めて処理できるチャンスでもある。
慰安婦問題単体で処理するよりもずっといいし、
これと引き換えに少なくともロシアやアメリカや欧州からは、
拉致問題についての解決要請をより強力に北朝鮮に向けての圧力をかけてもらいやすくなるだろう。

 それでも「強制連行はないから強制はない」と思う人間は言うといい。
(自由意志や過剰な労働酷使を欧米はもっとも重要視していると思うが。
 日本がいう強制連行を論点だと言っている部分は相手と論点が乖離しているのだ、
 慰安所での性奴隷そのものの性労働酷使が問題になり、そこから旧軍の関与と強制性の認識が発生している。
 監督責任ともいってもよい。民間業者がやったと言い張っているが、かなり深い度合いで、慰安所の管理運営、
 慰安婦の戦地移送や、旧軍と慰安婦を一緒に移動させたりなど、
 外から見れば言い逃れできないほど関与しているように見えるのだが。 *繰り返しで申し訳ない)
正しいことを言ったはずなのに謝罪したりと、
安部大将やそう主張する人間達の行動もまったく奇妙なようだが。
 
 あと僕は「旧軍の強制連行資料がなかったから、旧軍は関与していないし、強制もない」という論点が、
国際的に通用せず、なぜいつまでも国際社会に非難され続けるのか?
彼らはプロパガンダや左翼新聞社に支配されているのだろうか。
それとも強制連行がないという論点が通用しないのか。
それが通用しないのならば、彼らは訴えでた慰安婦の自由意志を尊重してああいった結論にいたったのか、
それかやはり慰安所という形態が戦地売春宿とは特異な為に誤解しているというのか。
こういったことを考えながら書いているので、強制連行についての議論の経緯もある程度理解はしているし、
僕の考えがこの慰安婦問題について左派と似通っていようがそれはどうとも思わない。
 日本人は相手の気持ちや考えを読み取るのがうまいとか誇っているが、特段そういったことはない。
 自分達の強制連行議論が通用しないのは何故か、どういえば通用するのか考察するべきだ。
多くのアメリカ議員達も、なかにはどうしようもないのもいるだろうが、
別の視点からこの慰安婦問題を探り結論をだし、彼らなりの誠意を持って対応している人間もいる。
当初、日本を擁護してくれたアメリカ議員達のように。しかし、そういった人間すら、
「強制連行はない」という安部首相の話を聞いて日本から去っていった事実を、
捻くれず、冷静になぜそうなったのか考えるべきだ。
いくら正常と言い張ろうと、異常で、尋常でない待遇であり、
「性奴隷」と彼らが囃したてるのも無理もないような慰安所ではなかったか?
政府は慰安婦の数と慰安婦が相手にした男性の数、労働時間、諸事情を、資料から正確に割り出せるのか?
「公娼」といった言葉で誤魔化し、戦地で女衒や軍人に囲まれ慰安婦を社会から孤立させた状況もあった、
そういった状況で慰安婦の自由意志が本当に尊重されただろうか?

 普通、公娼は民間にあり、それを認めた社会に存在しているからこそ、そこに自由意志があるとみなされる。
しかし国外にてんでばらばらに慰安婦を集め、慰安婦達をそれぞれの社会から切り離し、
旧軍が適当だと思う場所に慰安所を設営する、その隔離場所に自由意志が存続していると考えるのは無理がある。
なぜなら各々社会、国家にはそれらが培った相互監視が生きているし、国家システムも動いているからである。
慰安所のほとんどにはそういった環境が欠損している。
ファシストが国を動かしている、よって社会的には関与している、
だから慰安所に自由意志が存在していた、と思えますか?
いくらそれぞれの場所から応募に応じたとはいえ、一般社会から隔絶としてしまえば、
それからは自由意志を慰安所において発揮できたものかどうやって証明するのか。
歴史的に当時を見渡せば、周囲も、日本自体も軍政の統制下である。
そもそも自由意志とは民主主義の考えでしょう。
なぜ軍政下にそれがあると考えるのか? 内地にあるというならまだしも、
慰安所全てにそれが存在していたというのは納得できない話だろう。
実際、オーストラリアのケースも自由意志によって拒否したにも関わらず軍人により慰安婦にされている。
慰安所で自由意志が認められていたとは到底思えない。
自由意志を保持できるとは考えられない状況に人間を押し込んでしまえば、
当然、押し込まれた人間の自由意志など消失してしまう、と考えられるのではないしょうか。
自由意志を公に尊重し保護し認めるのは社会、共同体であり、それをさらに認めるのは他の国際的な社会だ。
そういったものが慰安所には欠けている。