【鍵・第2話】霊安室の父
【小説】TimeShare~タイムシェアが、携帯コミックになりました。
体を程よく沈めるシートに包まれ、心地よく揺れに身を任せながらも、なおも千景は眠りに落ちることなくぼんやりと車窓を流れる景色を眺めていた。
鮮やかな新緑の中を緩やかに続く幾つ目かのカーブを抜けた瞬間、目の前に突然水平線が現れた。
それは、昇って間もない朝日をキラキラと反射させて、寝不足の千景には眩しすぎるくらいだった。
「奥様、別荘の方には立ち寄らなくていいですよね?それとも…」
「このまま警察の方に行って頂戴。」
母の恵子はそう言うと、バッグから取り出したコンパクトを覗きながら赤い口紅を塗り直した。
その仕草を見て千景は心底うんざりした。これが夫の死亡を確認しに行く妻の態度なんだろうか、と。
家を出てから恵子はずっと携帯電話で出版社やら弁護士やらと、これからの対応について話し合っていた。
千景の父、森下修二は世間では名の通ったミステリー作家だ。
100作以上の作品を世に送り出し、そのうちの半分近くは映画化やドラマ化され、テレビや雑誌に取り上げられることもしょっちゅうである。
そんな大作家が自分の別荘で首つり自殺、なんてことになったらマスコミに取り上げられ、あらぬことを書き立てられて大変なことになる──。
恵子にとっては夫が死んだであろうショックよりも、世間の晒し者になる屈辱の方が耐え難く、辛い現実なのかもしれない。
携帯相手に捲し立てる母親の声を聞きながら、千景はずっと車窓の外を眺めていた。
父が死んだ。映画のワンシーンでも見ているかのようで、まるで現実味がない。
そんな悲しい知らせを聞いても涙ひとつ流れないのは、まだ現実として捉えられていないからなのだろうか。それとも千景もまた、母と同じように父を憎んでいるからなのだろうか。
コンクリートが剥き出しの壁に囲まれた殺風景な部屋の真ん中に、白い布を被ったままの父親であろう体が横たわっていた。
枕元で焚かれた線香が、青白い煙をゆらゆらと揺らめかせながら細く昇っていく様子を見て、千景はやっと「死」というものを肌で感じていた。
「失礼します。」
私服姿の警官が、うやうやしく白い布を捲り上げると、そこから現れたのは紛れもなく千景の父だった。
土気色をした顔に紫色の唇、首筋には紐の跡が生々しく残っていた。
半年ぶりに会う父親の姿。最後に会った時も会話らしい会話はなかった。
千景は父親の遺体と対峙してもなお、こみあげてくる感情は何もなく、ああ、こんなもんか、と冷静でいられる自分に情けなさすら感じていた。
それは母の恵子も同様らしく、「ご主人で間違いないですか?」との問いに「はい」と冷静に答え、ハンカチは握りしめられたまま、目頭を押さえることは一度もなかった。
「遺書らしきものは見つかっておりませんが、お仕事柄沢山の原稿やメモなんかが残っていらっしゃいまして、まあ、状況からして自殺に間違いないと思うのですが、ざっと書類を調べさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
申し訳なさそうに尋ねる警官に恵子は「ご自由に。」と冷たく告げて霊安室を出ようとした。
すると、ドアの目の前にひとりの青年が立ちつくしたまま恵子をじっと見つめていた。
「森下さん、こちらはご主人の遺体の第一発見者の方です。」
警官が右手を差し出してそう紹介すると、恵子は
「それは、どうも。森下の家内です。この度はご迷惑をお掛けしました。」
と、頭を下げた後、目の前の青年を頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺めた。
「はじめまして。中津川です。修二さんには大変お世話になりました。」
父親を「修二さん」と呼ぶ青年に千景は違和感を感じていた。
青年は挑戦的な眼差しを恵子と千景に向けながら言い放った。
「葉山でずっとふたりで暮らしていました。僕、修二さんを愛してます。」
恵子は彼を凝視したまま言葉を失って立ち尽くしていた。
彼の切れ長の瞼を割ってすうっと流れていく涙が、千景にはやはりドラマのワンシーンのように見えて仕方がなかった。
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