自分の価値観・世界観で見ている
現実に対して、対処しようとするのが、
私たちですが。
「こうに決まっている」現実が主体になると、
どうにも手が出せない自分がいる
ような心境になってしまいそうです。
私たちは、外界から「自分」を分離させ
どんどんと守備範囲を狭くしていきます。
そのほうが・・・楽ですからね。
「これは、自分には関わりない」と決めたら
責任はない。出来なくても叱られない。
楽な方へ~楽な方へ~と。
精一杯。自分の出来る限り・・・
を、やらないと自分(いのち)に対する
尊敬の念も生じないんじゃないかな。
自分自身に対して
「どうせ、こんなもんです」と
常にダメ出し。
これは、他者に対する見下しにも
つながってきますね。
そうやって「こうに違いない」と思い込む。
「その人」の本当を見ない。
世界の本当に触れない。
そこには・・・愛は、ない?
絶望は・・・もう逃げ場はない。
とハラを決めるような心境・・
考えているときは、ソコにいませんね。
過去にいたり、未来にいたり。今にいない。
「過去のせい」にしたり。
「未来の不安」を持ってきたり。
そんな思考のシステムに乗ってしまうのは
何事も、なんとなく、なにもかも
「他人ごと」にしてしまうから?
それがある意味「直面していない」
ということになるんじゃ?
似たようなもので言うと
「みんな、そうじゃない?
そうなるしかないじゃない」とか
「生活していくには、そうするしかない」とか。
即座に「○○のせい、○○が悪い!!」
と言い訳したがる。
山ほどのエトセトラ
でもそうしている自分に絶望したとき、
幻にすがりつくことが出来なくなる。
何かのせいにして、逃げるが出来ない。
真正面に「自分のこと」になる。
自分のことだから、手をつけることができる。
本気でそれを、そのまま、自分のことだ。
でしょうから。
それでやっと、
逃げる、見ない、差し替える・・・が、終わる。
「これまでのやり方」のズルサとか、間違いに気付く
というか~
で、なにが私を動かしているかというと
本当のことを知りたい。のだね。
本当は、どうなの? なんなの?
誰かがこう言っている
なんて、関係ない。
そんなのは意味がない。