「自分なんてものはない」
と言いながら・・・
でもそれを「見る私」が依然として
残っているのではないか、
「じぶんがない」なら、自分がないと
意識している自分は、何者? と問う。
自我を落とす。自我が一掃される。
ということに、こだわる人あり。
ああたね。
自我を一掃することは、問題ではない。
と~思うんですけどね。
つまり、「自分はない」のちは、
自我があっても気にならない、
気にしなくなる、
自我に流されない。だけ。
あっても問題にならない・・・となることが、
「見る私」が依然として残っているコトを
超えること。でしょう。
そこは一気に超えてしまわないと、
エゴのトリックにはまります。
何か問題を残すことが、
エゴの必死の抵抗なのですね。
たとえば、過去のことを思い出して、
痛くてしかたがない・・・
ということが以前にはある。
それを何度も思い出して
「痛い、苦しい、悔しい、無念だ」と
することがエゴの強化なのでして。
でも、忘れたわけではないのに、
今、思い出しても痛くない。
なんてことがありますよね。
それは、もう気にならない。
あったとしても問題にならない
状態でいるから、でしょ?
それは、思考は思考の働きが残るように、
自我も自我の仕事は残っている。
ということなのだわ。