私たちは何か、見るにしても聞くにしても
触れるにしても、対象が必要ですね。
目で目を見れないように。
目は、なにかを自分の外に見て
「これは・・・だ」となりますでしょ?
目でナニカを見て、その情報は脳に伝わって、
脳がそれを「これは・・・だ」と判断するということ。
じっさいは、思考も、対象物にならなければ、
意識できないものでしょう。
それが観察されるものは、観察者そのものである。
ということになりますよね。
見ているものを、自分の価値観・世界観で見ている。
つまりは、自分を見ている。
鏡に何かが映っても、映っていると意識しなければ、
何も映っていないのと、同じ。
つねに、相手となるものと意識する対象があって、
それをまじまじと見る。が行われる。
たとえば・・・
納豆を見て「納豆なんて嫌いだ」という感情が生じる。
それを頭の中で、言語化する。これが思考よね。
「納豆が嫌いなのに、出すなんて・・」と思う。
これは心理的な思考。
つづいて「いやがらせか?」と思考すると、
怒りの感情が生じる。
「納豆が嫌いだということを、相手は知らないのだろう」
と思考すれば、怒りには発展しない。
「納豆は嫌いなので、ボクは食べません」
と教えてあげれば問題なし。
だから、まぁ。
「納豆が嫌い」なのは、嫌いで問題なし。ですね。
嫌いなものがあってはいけない。ではない。
これは自然な行為。正常な感情。健全な思考。
ただ・・・日常の中で、なにか腹立たしい感情が
あってイライラして、機嫌が悪い。
あるいは体調がすぐれない。
なんてことがあると、八つ当たりで、
むりやり言いがかりのように怒ることもある。
相手が自分より上位だとわかっていたら、
怒ることを抑圧する。
なんてことも、あるんですよね。
すると。怒りの感情というのは
「自分は、こうです」という主張の
最高級(力技?)の行為と思われます。
それは、怒りを使うコミュニケーション
ということになりますが・・・
使う・使わないの判断も即座にしている
ということなのですから、
うまい伝え方があれば怒りを使わなくてすむ。
まぁ・・・怒りの正体を知れば、
怒りが稚拙なコミュニケーション作業だと
いうことがわかる。
で・・・使わなくなる。となりそうですが。
私の場合でいうと。
ホントに本気で怒ったことは、一度もなかった。
と今は、わかってます。