事実をみれば「したいこと」だけに集中できる | 朱鷺の“人生七転び八起き”

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心と体の健康の情報を発信していきます。

パラダイムですが、これは、
「極めて個人的に常識として見ている世界」


見えている世界は、人それぞれ千差万別。


しかし。個人的なものだから・・・

で、済ませられないものでも、ある。


私たちは、一人で生きているわけではないからね。

人との関わりの中で、生活がありますから。


誰かのパラダイムと、自分のパラダイムが

ぶつかり合って、どちらも、引けない。

なんてことが、起きる。


そのとき・・・どうするか。


答えを単的に言うと
「事実を知っているか、いないか?」
というトコロに、立つ。


すると、なんとなく、冷静になれる。


そして

「お互いがグッドである」

観点の場に、移動する。


自分だけが・・・
相手だけが・・・


という解釈で、モノ・コトを見ていると
事実は、見えてきませんね。


「お互いがグッドである」ときに
事実に対して、無欲で向き合える。
向き合えるから、事実が見える。
とも、、、言えますか。



単純な構成から言うと
たとえば、満員電車の中で、老人に席を譲った。

このとき、相手から、感謝される必要はないのですね。

「譲ることのできた自分」であることに、
なーんとなく、言葉にならない豊かさを、得る。


これは、相手から拒否されることがあっても
ぜんぜん、関係ないんですね。


「感謝されたい」という要求があったら
目的がソコですから、満たされない可能性もある。
むしろ、拒否されるということで傷つくこともある。

それは全部~自分の持つ「パラダイム」から起きます。


感謝されたいパラダイム。なのか
与えたいパラダイム。なのか
なのですね。


与えたら見返りが欲しいか
ただ与えたいのか。



まっ。みなアタマでは、理解しているのですよね。
見返りなく、与えることが、与えることだ、って。

だけどー知っているのと、出来るのとは違う。


「見返り」というのは、やったことの結果を確認したい。
というトコロからも、出てくる。

与えたものが、良いものだったか、悪いものだったか。

それをね。
どーしてか、確認したいのね。