200905 Barcelona
こんばんは
最初に皆さまへご報告です
今回のテーマに関しては
調べ事をしている過程で
思いのほか長くなってしまいましたので
読みづらさを解消するため後ほど2分割いたしました
既に通しでお読みくださった方へ
長文にもかかわらず辛抱強く
お読みくださって本当にありがとうございました
また上記の理由によりご迷惑をおかけして、
誠に申し訳ございません
それではさっそく続きをご案内させていただきます
前回の記事はこちらバルセロナ旅行記⑰-8-1
さて前編でご紹介した
スニフレー家から輩出したバルセロナ伯
ギフレ1世。
彼はどのようにカタルーニャ君主国の
紋章にかかわったのでしょうか
紋章の由来
当時の背景としては
フランク王国※¹※が領土を約300の州に分け
それぞれの州に伯を置いて統括に当たらせていたそうです。
そしてギフレ1世はそのフランク王国の領土でもあった
カタルーニャ地方のバルセロナ伯。
きっかけはノルマン人との戦でした
というのも
ノルマン人の海賊に頭を悩ませていた
時の西フランク王国※²※の王様シャルルが
ギフレ氏の活躍により海賊を一蹴した際、
その功績をたたえ、褒美を与えることに
ギフレ氏はその戦闘で胸に重症を負っていました。
西フランク王シャルルが彼を見舞いに訪れた際
この戦いで活躍を果たした忠実なギフレ氏に
褒美の所望を確認すると
ベッドに臥していたギフレはしばし考えた末
枕元に立てかけてある黄無地の盾を指し
「何か紋を授かりたい」
と西フランク王に伝えたそうです。
それを受けて
王シャルルは無言でうなずき一歩前に進み出
おもむろに右手の指でギフレの傷口に触れ
その血痕のついた指で盾に四本の線を引いたのだとか
>田澤 耕 氏著作「物語 カタルーニャの歴史」より抜粋
※¹ 5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配した
ゲルマン系の王国。
ドイツ、フランス、イタリア、ベネルクス3国を統一。
※² のちのフランスに相当。
>Wikipediaより
こちらはカテドラルを訪れた際
ステンドグラスを撮った写真のズームアップ
ちなみに西フランク王シャルルには
「禿頭王」というあまり有難くない渾名があったようですが
そちらを元にWikipediaの歴代西フランク王を照合してみると
どうやらシャルル2世に当たるようです
それにしてもギフレ1世の綽名が多毛伯(Guifre I el Pelos)
一方のシャルル2世は禿頭王(Carles II el Calb)
うーむ
・・・なんという数奇な巡り合わせ
(着眼点、間違ってますか)
ギフレ1世の功績
Wikipediaによると
カタルーニャ地方は中世に
フランク王がスペイン辺境伯領を設置、
フランク領内の人材が一大限りの伯爵として派遣。
その中の1人がギフレ1世だったようです。
また彼は南仏出身で、
カタルーニャの主流を占めていた
南フランス系移民と旧支配層である西ゴート住民
双方の血筋を引いており、
フランク王権や周辺国から独立した存在にするなど
今日のカタルーニャの基礎を築き上げたのだそうです
ただし、
実際にはギフレ氏がノルマン人と戦ったという記録はないらしく
紋章が文書に現れるようになる時期は
ギフレ1世の時代よりずっと後なのだそうです
>田澤 耕 氏著作「物語 カタルーニャの歴史」より抜粋
とはいえ例えそういった経緯を考慮したとしても
ギフレ1世と紋章にまつわるエピソード
なんとも興味深く印象的ではありませんか
そしてその勇敢なギフレ1世から数えて
スニフレー家8代目のバルセロナ伯が
大聖堂の一角にあるご紹介事項と関連性のある
ラモン・べレンゲー1世(Berenguer Ramon I)[治世:1035年-1076年]
となります
何故このような経緯をお伝えしたかったかというと、
今回ご案内しているカテドラルにくだんの
ラモン・ベレンゲー1世のお墓があるからなのです
こちらがその墓碑となります
お気づきの方もいらっしゃると思いますが、
実は先にご紹介した「大聖堂 カテドラルの内部」
でもさらっとご案内しています
該当記事はこちらバルセロナ旅行記⑰-6
1つ上の写真と見比べて頂いた場合、
こちらのお写真の更に下の箇所に墓碑(石棺)があり
バルセロナ伯、
ラモン・ベレンゲー1世(Ramon Berenguer I)と
その妻アルモディス(Almodis de la Marca)の
遺骸が並んで安置されているようです。
先ほど紋章の由来でお世話になった
田澤 耕 氏著の「物語 カタルーニャの歴史」によると
ラモン・ベレンゲー1世は生涯に3度の結婚をし、
アルモディスは三人目の妻で
絶世の美女だったそうです
話は変わりますがWikipediaによると
カタルーニャ君主国(Principat de Catalunya)が存在したのは
987年-1716年までとあります
年代を考慮すると
「カタルーニャ君主国」としての該当する統治者は
くだんのスニフレー家の4代目
ボレイ2世(Borrell II)[治世:947年-992年]
から
サン・ジャウマ広場の市庁舎※の
正面左側に立っている彫刻の人物でもある
アラゴン家の3代目、
ジャウマ1世(Jaume I):征服王(el Conqueridor)
[治世:1213年-1276年]
※ジャウマ1世の彫刻がある市庁舎の記事は
こちらバルセロナ旅行記⑰-1
同じく
アラゴン家から輩出された6代目のバルセロナ伯
ジャウマ2世(アラゴン王としてはハイメ2世)
の時代、
かつてロマネスク様式だったカテドラルを
1298年から150年かけてゴシック建築で増築、
現代私たちが目にする建物となり
更には
スペイン継承戦争時の
フェリプ4世(Felip IV)[治世:1700年-1714年]
スペイン王としてはフェリプ5世(Felip V):スペイン・ブルボン朝
(う~紛らわしいっ)
までが
バルセロナ伯を歴任した形となります
中世以降の若干血なまぐさいお話が続いたので
最後に大聖堂に存在する天使をご紹介したいと思います
こちらにご注目ください
イエス様を囲むように6体の天使たちが
こちらの和やかな雰囲気の天使たちの存在と
大聖堂にひっそりと眠るバルセロナ伯の人物像など
背景を踏まえてきちんとお伝えしたくて
思いのほか長くなってしまいましたが
かつて存在したカタルーニャ君主国とバルセロナ伯
そしてカテドラルに佇む天使たちの印象
いかがでしたでしょうか
最後までおつきあいくださり、ありがとうございました
次回へつづく
こんばんは
最初に皆さまへご報告です
今回のテーマに関しては
調べ事をしている過程で
思いのほか長くなってしまいましたので
読みづらさを解消するため後ほど2分割いたしました
既に通しでお読みくださった方へ
長文にもかかわらず辛抱強く
お読みくださって本当にありがとうございました
また上記の理由によりご迷惑をおかけして、
誠に申し訳ございません
それではさっそく続きをご案内させていただきます
前回の記事はこちらバルセロナ旅行記⑰-8-1
さて前編でご紹介した
スニフレー家から輩出したバルセロナ伯
ギフレ1世。
彼はどのようにカタルーニャ君主国の
紋章にかかわったのでしょうか
紋章の由来
当時の背景としては
フランク王国※¹※が領土を約300の州に分け
それぞれの州に伯を置いて統括に当たらせていたそうです。
そしてギフレ1世はそのフランク王国の領土でもあった
カタルーニャ地方のバルセロナ伯。
きっかけはノルマン人との戦でした
というのも
ノルマン人の海賊に頭を悩ませていた
時の西フランク王国※²※の王様シャルルが
ギフレ氏の活躍により海賊を一蹴した際、
その功績をたたえ、褒美を与えることに
ギフレ氏はその戦闘で胸に重症を負っていました。
西フランク王シャルルが彼を見舞いに訪れた際
この戦いで活躍を果たした忠実なギフレ氏に
褒美の所望を確認すると
ベッドに臥していたギフレはしばし考えた末
枕元に立てかけてある黄無地の盾を指し
「何か紋を授かりたい」
と西フランク王に伝えたそうです。
それを受けて
王シャルルは無言でうなずき一歩前に進み出
おもむろに右手の指でギフレの傷口に触れ
その血痕のついた指で盾に四本の線を引いたのだとか
>田澤 耕 氏著作「物語 カタルーニャの歴史」より抜粋
※¹ 5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配した
ゲルマン系の王国。
ドイツ、フランス、イタリア、ベネルクス3国を統一。
※² のちのフランスに相当。
>Wikipediaより
こちらはカテドラルを訪れた際
ステンドグラスを撮った写真のズームアップ
ちなみに西フランク王シャルルには
「禿頭王」というあまり有難くない渾名があったようですが
そちらを元にWikipediaの歴代西フランク王を照合してみると
どうやらシャルル2世に当たるようです
それにしてもギフレ1世の綽名が多毛伯(Guifre I el Pelos)
一方のシャルル2世は禿頭王(Carles II el Calb)
うーむ
・・・なんという数奇な巡り合わせ
(着眼点、間違ってますか)
ギフレ1世の功績
Wikipediaによると
カタルーニャ地方は中世に
フランク王がスペイン辺境伯領を設置、
フランク領内の人材が一大限りの伯爵として派遣。
その中の1人がギフレ1世だったようです。
また彼は南仏出身で、
カタルーニャの主流を占めていた
南フランス系移民と旧支配層である西ゴート住民
双方の血筋を引いており、
フランク王権や周辺国から独立した存在にするなど
今日のカタルーニャの基礎を築き上げたのだそうです
ただし、
実際にはギフレ氏がノルマン人と戦ったという記録はないらしく
紋章が文書に現れるようになる時期は
ギフレ1世の時代よりずっと後なのだそうです
>田澤 耕 氏著作「物語 カタルーニャの歴史」より抜粋
とはいえ例えそういった経緯を考慮したとしても
ギフレ1世と紋章にまつわるエピソード
なんとも興味深く印象的ではありませんか
そしてその勇敢なギフレ1世から数えて
スニフレー家8代目のバルセロナ伯が
大聖堂の一角にあるご紹介事項と関連性のある
ラモン・べレンゲー1世(Berenguer Ramon I)[治世:1035年-1076年]
となります
何故このような経緯をお伝えしたかったかというと、
今回ご案内しているカテドラルにくだんの
ラモン・ベレンゲー1世のお墓があるからなのです
こちらがその墓碑となります
お気づきの方もいらっしゃると思いますが、
実は先にご紹介した「大聖堂 カテドラルの内部」
でもさらっとご案内しています
該当記事はこちらバルセロナ旅行記⑰-6
1つ上の写真と見比べて頂いた場合、
こちらのお写真の更に下の箇所に墓碑(石棺)があり
バルセロナ伯、
ラモン・ベレンゲー1世(Ramon Berenguer I)と
その妻アルモディス(Almodis de la Marca)の
遺骸が並んで安置されているようです。
先ほど紋章の由来でお世話になった
田澤 耕 氏著の「物語 カタルーニャの歴史」によると
ラモン・ベレンゲー1世は生涯に3度の結婚をし、
アルモディスは三人目の妻で
絶世の美女だったそうです
話は変わりますがWikipediaによると
カタルーニャ君主国(Principat de Catalunya)が存在したのは
987年-1716年までとあります
年代を考慮すると
「カタルーニャ君主国」としての該当する統治者は
くだんのスニフレー家の4代目
ボレイ2世(Borrell II)[治世:947年-992年]
から
サン・ジャウマ広場の市庁舎※の
正面左側に立っている彫刻の人物でもある
アラゴン家の3代目、
ジャウマ1世(Jaume I):征服王(el Conqueridor)
[治世:1213年-1276年]
※ジャウマ1世の彫刻がある市庁舎の記事は
こちらバルセロナ旅行記⑰-1
同じく
アラゴン家から輩出された6代目のバルセロナ伯
ジャウマ2世(アラゴン王としてはハイメ2世)
の時代、
かつてロマネスク様式だったカテドラルを
1298年から150年かけてゴシック建築で増築、
現代私たちが目にする建物となり
更には
スペイン継承戦争時の
フェリプ4世(Felip IV)[治世:1700年-1714年]
スペイン王としてはフェリプ5世(Felip V):スペイン・ブルボン朝
(う~紛らわしいっ)
までが
バルセロナ伯を歴任した形となります
中世以降の若干血なまぐさいお話が続いたので
最後に大聖堂に存在する天使をご紹介したいと思います
こちらにご注目ください
イエス様を囲むように6体の天使たちが
こちらの和やかな雰囲気の天使たちの存在と
大聖堂にひっそりと眠るバルセロナ伯の人物像など
背景を踏まえてきちんとお伝えしたくて
思いのほか長くなってしまいましたが
かつて存在したカタルーニャ君主国とバルセロナ伯
そしてカテドラルに佇む天使たちの印象
いかがでしたでしょうか
最後までおつきあいくださり、ありがとうございました
次回へつづく