平清盛 第二十話「前夜の決断」 その背景~保元の乱 源氏と平家 それぞれの決断~ | テレビ番組 時事ネタなど書いていきます。はい。

平清盛 第二十話「前夜の決断」 その背景~保元の乱 源氏と平家 それぞれの決断~

保元の乱が起きるまでの経緯について、

天皇家・信西
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11258092396.html

藤原摂関家
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11258957129.html

の問題を考えてみました。

では、争いが起きようとしている時に、
源氏のそれぞれ、そして平家のそれぞれがどのようにして、
自らの立場を決していったのでしょうか?

単純にいえば、後鳥羽天皇に味方するのか、
崇徳上皇に味方するのか、それを明らかにせねばなりません。
そして、それを誤れば、
身の破滅、さらには一族の命運にまで関わってくる大問題です。

まずは源氏から考えます。

源為義。
白河院の信頼を失っていた男です。
源氏の棟梁ではありますが、
重く用いられることはありませんでした。
そのあたりは、

源氏の凋落、為義はなぜ重用されない? その1
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11144426053.html

源氏の凋落、為義はなぜ重用されない? その2
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11258957129.html

にお書きしていますが、彼以前からの源氏の凋落や、
自身の郎等(主とは非血縁者の従者)や八男・為朝の乱行等々により、
白河院に用いられないということで、
彼と彼の息子たちが頼っていたのが、
藤原忠実と頼長でした。
忠実と頼長も、行き場を失っていて、
崇徳上皇についていたことから、
為義がこちらの戦力となるのは必然でした。

しかし違っていたのが長男の義朝で、
彼は自力で鳥羽院の信頼を得て、
下野守にまでになっています。
父・為義が受領に就けるはずはありませんでしたので、
官位も含めまして、
義朝は父親の遥か上を走っていたことになります。

義朝のこの力は、東国で蓄えられたとされています。
なぜ彼が東国に赴いたかについては、
諸説あるようで、一つは平家に対抗するため、
関東武士を再編するためというもので、
もう一つは、彼が廃嫡されたためというもの。
廃嫡というのは、簡単にいえば、
跡継ぎではなくなることで、
この場合では、父・為義は次男の義賢を跡継ぎとしていると。
義朝を産んだ母の父は白河院の近臣だったようで、
藤原忠実にすり寄っている父・為義にしてみれば、
白河院に疎まれた忠実の手前、
廃嫡に至ったのではないかという話です。

父と息子の立場が大きく違っていたことが、
保元の乱における身の置き場所の違いとなる訳ですが、
この親子の不仲が表立って顕れたのが、
為朝の長男・義平による義賢襲撃でした。
為義に命じられ東国へ赴き、
勢力を伸ばしていた弟の義賢を
義朝は長男・義平に義賢を襲わせ殺させています。
こうして、為義と義朝の溝は深まっていきました。



平家、その棟梁・平清盛。
鳥羽法皇がいよいよ危ないという頃、
襲撃を警戒し、多くの武士が警護のために招集されています。
しかし、その中に清盛たちは含まれていませんでした。
鳥羽法皇(の近臣、後白河天皇側)は、
清盛が味方であるかどうかについて、
確信が持てなかったのかもしれません。
後白河もまだこの時点では、
清盛と深い繋がりを持ってはいませんし。

清盛にとっての継母・池禅尼は、
崇徳の皇子重仁親王の乳母でした。
崇徳が近衛天皇崩御の時に天皇にしたかった親王です。
父・忠盛はこの重仁親王の乳父に当たることになります。
ということは、清盛と親王は乳兄弟です。
形式上のことではあるんですが、
こういったことから、
清盛を後白河側は味方だと断じきれなかったのでしょう。
さらには藤原忠実が支配していた淡路国の国守に任じられていたのが、
清盛の弟・教盛で、こういった多方面とのしがらみは、
清盛の祖父・正盛、父・忠盛が、
一門を天皇家や宮廷貴族たちに
食い込ませてきたということなんですけれど、
ここではそれが一門の分裂を招きかねない危機ともなっています。

決断を誤れば、一門は両軍に分かれて戦うことになります。
平清盛はその決断を下さねばなりません。
その決断の助けとなったのが継母の池禅尼だとされています。
平家で一番の勢力を誇るのは、
もちろん、棟梁の清盛ですが、
その次は五男の頼盛という勢力図になっていました。
その頼盛の生母である池禅尼は、

コノ事ハ一定新院ノ御方ハマケナンズ。
勝ツベキヤウモナキ次第ナリ


と、これから起こる戦の成り行きを予想、
崇徳天皇の側が負けると考え、
頼盛に対し、

ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ

と命じています。

大河ドラマ 平清盛

こうして、頼盛は清盛とともに戦うことになり、
それは平家が後鳥羽天皇の側として参じることを意味していました。


問題は平忠正です。
平家には源氏のような大きな分裂は起きませんでしたが、
忠正だけは崇徳院側で、
清盛の敵となっています。
なぜ、天皇側でないのか、手元の資料には

かねてより清盛とは不仲であり

というような事しか書かれていません。
劇中、不仲という描写もありつつも、
関ヶ原の時の真田家の信幸・幸村兄弟の如く、
どちらが勝っても平家は残るという意味を持たせて、
崇徳院へと走らせていましたが、
実際はどうだったのでしょうか?






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