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2012年05月28日(月) posted by thinkmacgyver

次長課長・河本準一さんの騒動に対する数々の違和感

テーマ:時事
先にお書きしておきます。
考えがまとまっていません。
どうにも気持ちが悪いです。


この問題が最初に聞こえてきた時に、
私がまず思ったのは、

芸人なのに笑いにならん問題を

というものでした。

適切ではない生活保護の受給があり、
それを放置していたのは、紛れもなく河本さんの責任で、
その責任を問われるようなことになると、
笑いには出来ないだろうということが心配でした。

記者会見が行われ、自らの責任を認められ、
受けていた生活保護費を返納する意向を示されました。

それで彼の行いの全てに対し、
納得出来るという訳ではないんですが、
一定の理解はしたつもりです。
とはいえ、収まりを見せないこの問題に対し、
違和感を覚える訳です。


複雑なのは、この問題で実名を出して批判、
追及する姿勢を見せていたのが、
片山さつき参議院議員だという点ですね。

彼女も適切ではなかったと私は思います。
少なくとも、違法ではないとされるこの問題で、
彼のお母様が生活保護を受けているなんていう、
最大限保護されなければならないプライバシーを、
国会議員が公にしてしまいました。
河本さんが公人、またはそれに準ずる立場で、
その受給が適切ではなく、
また、彼女が名前を出さなくても、
河本さんの名前は出ていたにしても。

…とはいえ、片山参議院議員が叩かれるのも、
何か違和感があるんですよねえ。


藝人をいじめて愉しセレブ議員
https://twitter.com/Kitsch_Matsuo/status/205884490877370368

松尾貴史さんの川柳Tweetですけれど…
何かが違うんですよね。

この問題はそういうところに焦点が当たるべきではなく、
この生活保護制度自体の不備について、
皆が考えるべきなのではないかと思います。

社会正義として考えれば、
片山議員もそのための導火線として、
河本さんの名前を出したのかもしれません。
サンクチュアリの如きこの問題に手を付けようとすると、
有象無象の謎の団体が全力を挙げて抵抗するでしょうから。
ただ、そのための手段がベストではなかったと考えます。
社会正義を為すためだとしても、
もしも、河本さんがこれで収入を失うようなことにでもなれば、
彼の力ならばないとは思いますが、
万が一、彼自身の精神に問題が生じ、
客前に出られないような事態にでもなれば、
問題は彼のお母様の受給云々ではなくなります。
たしか、彼には奥様とお二人のお子さんがいらっしゃると思いますが、
その扶養が困難になるような事にでもなってしまえば、
彼自身も生活保護を受けなければならなくなります。

今回は「不正受給」ではないとのことですが、
不正時給は現実に多数行われているはずで、
そういう人に生活保護費が行かないような、
また、差し止めることが出来るようなシステムが必要なんですよね。

制度を変えるのであれば、
今回の河本さんのケースでは(少なくともここ5~6年のぶんは)、
受けられないようにしておかなくてはなりません。

ただ、そのためには、
扶養義務のある人の収入を把握する必要が生まれる訳ですが、
そのための手段が思いつきません。


生活保護制度は、生活に困窮する方に対し、その困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとともに、自立を助長することを目的としています。
http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/seikatuhogo/index.html

厚生労働省のページには、
生活保護制度について、このように書かれています。

その主旨から考えますと、
完全に労働能力がなく困窮している人は別にして、
労働が可能な人が困窮している場合においては、
自立するための資金でなくてはならない訳です。

現場からはケースワーカーの人手不足が聞かれ、
不正や不適切な受給を停止するためには、
この部分を見直さなくてはなりませんし、
いずれは生活保護受給を脱して、
自立出来るようなシステムも必要です。
また、昨今言われるワーキングプア状態では、
働かずに生活保護を受けたほうが生活が楽になるという
現代の日本社会の歪みにも問題があります。

この騒がしさが、
特定の個人の話題ではなく、
制度の問題の方へと向かってくれることを願います。
この二人を叩いたところで、
何も生まれるはずはありませんから。


ねてしてタペ



2012年05月27日(日) posted by thinkmacgyver

平清盛 第二十話「前夜の決断」 その背景~保元の乱 源氏と平家 それぞれの決断~

テーマ:テレビドラマ
保元の乱が起きるまでの経緯について、

天皇家・信西
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11258092396.html

藤原摂関家
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11258957129.html

の問題を考えてみました。

では、争いが起きようとしている時に、
源氏のそれぞれ、そして平家のそれぞれがどのようにして、
自らの立場を決していったのでしょうか?

単純にいえば、後鳥羽天皇に味方するのか、
崇徳上皇に味方するのか、それを明らかにせねばなりません。
そして、それを誤れば、
身の破滅、さらには一族の命運にまで関わってくる大問題です。

まずは源氏から考えます。

源為義。
白河院の信頼を失っていた男です。
源氏の棟梁ではありますが、
重く用いられることはありませんでした。
そのあたりは、

源氏の凋落、為義はなぜ重用されない? その1
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11144426053.html

源氏の凋落、為義はなぜ重用されない? その2
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11258957129.html

にお書きしていますが、彼以前からの源氏の凋落や、
自身の郎等(主とは非血縁者の従者)や八男・為朝の乱行等々により、
白河院に用いられないということで、
彼と彼の息子たちが頼っていたのが、
藤原忠実と頼長でした。
忠実と頼長も、行き場を失っていて、
崇徳上皇についていたことから、
為義がこちらの戦力となるのは必然でした。

しかし違っていたのが長男の義朝で、
彼は自力で鳥羽院の信頼を得て、
下野守にまでになっています。
父・為義が受領に就けるはずはありませんでしたので、
官位も含めまして、
義朝は父親の遥か上を走っていたことになります。

義朝のこの力は、東国で蓄えられたとされています。
なぜ彼が東国に赴いたかについては、
諸説あるようで、一つは平家に対抗するため、
関東武士を再編するためというもので、
もう一つは、彼が廃嫡されたためというもの。
廃嫡というのは、簡単にいえば、
跡継ぎではなくなることで、
この場合では、父・為義は次男の義賢を跡継ぎとしていると。
義朝を産んだ母の父は白河院の近臣だったようで、
藤原忠実にすり寄っている父・為義にしてみれば、
白河院に疎まれた忠実の手前、
廃嫡に至ったのではないかという話です。

父と息子の立場が大きく違っていたことが、
保元の乱における身の置き場所の違いとなる訳ですが、
この親子の不仲が表立って顕れたのが、
為朝の長男・義平による義賢襲撃でした。
為義に命じられ東国へ赴き、
勢力を伸ばしていた弟の義賢を
義朝は長男・義平に義賢を襲わせ殺させています。
こうして、為義と義朝の溝は深まっていきました。



平家、その棟梁・平清盛。
鳥羽法皇がいよいよ危ないという頃、
襲撃を警戒し、多くの武士が警護のために招集されています。
しかし、その中に清盛たちは含まれていませんでした。
鳥羽法皇(の近臣、後白河天皇側)は、
清盛が味方であるかどうかについて、
確信が持てなかったのかもしれません。
後白河もまだこの時点では、
清盛と深い繋がりを持ってはいませんし。

清盛にとっての継母・池禅尼は、
崇徳の皇子重仁親王の乳母でした。
崇徳が近衛天皇崩御の時に天皇にしたかった親王です。
父・忠盛はこの重仁親王の乳父に当たることになります。
ということは、清盛と親王は乳兄弟です。
形式上のことではあるんですが、
こういったことから、
清盛を後白河側は味方だと断じきれなかったのでしょう。
さらには藤原忠実が支配していた淡路国の国守に任じられていたのが、
清盛の弟・教盛で、こういった多方面とのしがらみは、
清盛の祖父・正盛、父・忠盛が、
一門を天皇家や宮廷貴族たちに
食い込ませてきたということなんですけれど、
ここではそれが一門の分裂を招きかねない危機ともなっています。

決断を誤れば、一門は両軍に分かれて戦うことになります。
平清盛はその決断を下さねばなりません。
その決断の助けとなったのが継母の池禅尼だとされています。
平家で一番の勢力を誇るのは、
もちろん、棟梁の清盛ですが、
その次は五男の頼盛という勢力図になっていました。
その頼盛の生母である池禅尼は、

コノ事ハ一定新院ノ御方ハマケナンズ。
勝ツベキヤウモナキ次第ナリ


と、これから起こる戦の成り行きを予想、
崇徳天皇の側が負けると考え、
頼盛に対し、

ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ

と命じています。

大河ドラマ 平清盛

こうして、頼盛は清盛とともに戦うことになり、
それは平家が後鳥羽天皇の側として参じることを意味していました。


問題は平忠正です。
平家には源氏のような大きな分裂は起きませんでしたが、
忠正だけは崇徳院側で、
清盛の敵となっています。
なぜ、天皇側でないのか、手元の資料には

かねてより清盛とは不仲であり

というような事しか書かれていません。
劇中、不仲という描写もありつつも、
関ヶ原の時の真田家の信幸・幸村兄弟の如く、
どちらが勝っても平家は残るという意味を持たせて、
崇徳院へと走らせていましたが、
実際はどうだったのでしょうか?






ねてしてタペ



2012年05月26日(土) posted by thinkmacgyver

ビーバップ!ハイヒール 「辞書ほど面白い本はない!」 その2 ~初の国語辞典「言海」誕生秘話~

テーマ:テレビ番組
その1 ~国語辞典が放つ個性とは~
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11259827645.html

昨夜は、現在発行されている辞書ごとの個性についてお書きしました。

では、我が国初の国語辞典とはどのようなもので、
どのように出来上がったものでしょうか?

「国語辞典」というからには、
「国」の言葉を扱う辞典であり、
ということは、「国」という概念が固定されてから
以降の辞典を指すことになります。

「国」が現在の私たちの概念と同じものになったのは明治。

明治の初め頃、英仏米独などの国々では、
国語辞典作りが盛んに行われていました。
近代国家の仲間入りをするためには、
明治政府は日本語を統一し、
我が国にも国語辞典が必要だと考えました。

明治8年、文部省報告課に勤務していた大槻文彦、28歳。
彼は課長の西村茂樹に呼び出されます。
そして命じられたのが国語辞典の編纂でした。

なぜこの28歳の彼がそんな大役に任じられたのでしょうか?
しかも、彼ただ一人が。

彼は儒学者・大槻磐渓の三男、そして兄は漢学者の大槻如電、
さらに祖父は日本の蘭学の第一人者…

…とナレーションはなっていまして、
蘭学の第一人者、大槻…、もしやと思い調べてみて驚きました。
祖父は大槻玄沢ではありませんか。
前野良沢と杉田玄白の弟子であり、
蘭学の歴史は彼抜きには語れません。
どうやら、岩手県一関市では、玄沢、磐渓、文彦の三代を

一ノ関駅前 大槻三賢人像

「大槻三賢人」と呼んでいるそうですね。

…思わぬ事を知ることが出来て歓喜しておりますが、
ともあれ、大槻家では、それぞれ多様な学問の分野で、
名を成した大学者たちがいたために、
文彦が任じられたようです。
しかし、なぜ一人だったのでしょうか…?
よくわかりませんね。

様々な学問に触れてきた大槻文彦でしたが、
国語学について詳しいわけではありません。
国語辞典の編纂を命じられたものの、
何から手を付けて良いものかわかりません。
そこで、彼は諸外国の国語辞典を開き、
その編集方針を調べてみることにしました。
すると、「雨」「おはよう」「山」など、
日常のありふれた言葉が並んでいることに気付きました。
専門的な学術用語は要らないと知った彼は、
普段使われている言葉の収集に取りかかります。

この時、彼は果てしなく広い言葉の海へと
漕ぎ出したことになります。

道端で誰かが会話しているのを見つけると、
その中で使われた言葉を手帳にメモすることもありました。
田舎の人を見つけては方言についても調べます。
書店に通い、道具屋に通い、言葉を収集。
発音、語源、意味、出典などを加え、
従来のいろは順ではなく、
五十音順に分類していきます。

先の見えない作業、
自分はこの仕事を完了できるかどうか不安な時、
彼の妻・いよはいつも夫を励まします。

10年の月日が流れました。
やるべきことはやった、
大槻文彦は完成した10年ぶんの成果を提出することにしました。
言葉の海、

言海

その稿本を文部省に提出し、
あとは出版されるのを待つだけとなりました。
達成感に満たされた彼は、家族たちとその日を待ちます。
しかし…、待てど暮らせど出版される気配はありません。
気がつけば、提出から3年も過ぎていました。
文部省に確認しますと、

政府が発行する予定であったが、
予算が獲得できず、出版は出来ない


という返事。
そして、

もしも、大槻君が自費で出版するというのであれば、
稿本は返却する


と…

10年の苦労を無駄には出来ない、
彼は自費出版を決意します。

あらためて稿本を見直しますと、
手を加えたい部分が目につきました。
もう一度、辞書作りの情熱を取り戻し、
手直しに取りかかります。
そんな時…

彼の愛嬢・えみが風邪をこじらせ、
結核性脳膜炎を患い入院してしまいます。
妻・いよは、

娘には私が付き添って看病しますから、
あなたは辞書の事だけ考えて下さい


と。
彼は改訂作業に没頭していきます。
しかし…

二人の娘が家に戻ってくることはありませんでした。

さらにその1ヶ月後…

妻も他界…


それでも、彼は辞書作りを止めることは出来ませんでした。
そんな彼が終盤の「ろ」の部分に取りかかっていると、
ある言葉が目に留まります。

露命 -ロメイ-
ツユノイノチ、ハカナキ命

…原稿用紙に涙が落ちました。



1891年、「言海」出版。
完成まで17年、
収録総語数39,103語の四分冊。

彼は言葉の海を渡りきったのでした。


なお、この言海は現在復刻された形で、
手にすることが出来ます。



この言海では、巻末にこの辞書が編まれた理由、
その苦難などが書かれているそうです。

この言海が生まれて、その後の国語辞典は、
この言海の上に成り立つこととなりました。


大槻文彦


なお、出版後について調べてみますと、
出版パーティーには伊藤博文、山田顕義、大木喬任、榎本武揚、
谷干城、勝海舟、土方久元、加藤弘之、津田真道、陸羯南、矢野龍渓…、
と、とんでもないメンバーが出席していますね。

そして、晩年には言海の改訂に着手しています。
しかし、その作業半ばで死去、
兄の如電らがそれを引き継ぎ、
如電死去の後の1937年(昭和12年)、
約98,000語が収録された言海の増補版というべき

大言海

新編大言海/大槻 文彦

¥18,961
Amazon.co.jp


が出版されています。



ねてしてタペ

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