「JIN-仁-」完結編 第6話 その背景 ~田中久重 -からくり儀右衛門- 東芝創業者~ | テレビ番組 時事ネタなど書いていきます。はい。

「JIN-仁-」完結編 第6話 その背景 ~田中久重 -からくり儀右衛門- 東芝創業者~

考えてみますと、「JIN-仁-」は「日曜劇場」で、
元はといえば「東芝日曜劇場」なんですよね。
1社提供だった東芝がこの枠のスポンサーを降りたのは2002年、
その後は複数の企業による提供に代わり、
そして、そのうちの一つとしてこの枠に東芝が帰ってきたのは、
前シリーズ、2009年の「JIN-仁-」から。
田中久重は原作にも登場しますので、面白い縁かもしれませんね。
特にTBSの営業面でどうこうという話ではないのでしょう。
ヤマサ醤油の濱口儀兵衛も登場していますし。


このブログで、彼の名前を出すのは二度目になります。
昨年の

タイムスクープハンター「われら時の番人」

に、香時計が登場していて、
話が和時計に脱線した流れで田中久重の万年時計を紹介しています。

万年自鳴鐘

万年時計、この万年自鳴鐘は、

・一度巻けば1年動き続ける
・京からの太陽と月の動きを見る事が出来る
・文字盤を自動的に変化させ、不定時法による時刻表示可能
・定時法の時刻表示も可能
・二十四節気の表示
・月齢の表示
・十干十二支の表示


という、信じられない時計です。
当時の不定時法の時刻を自動的に調節して
表示するだけでもたいへんだと思うんですが。
田中久重は1851年にこの万年自鳴鐘を作っています。
まだ、ペリーは来ていません。


1799年(寛政11年)、
田中久重は鼈甲細工師の長男として久留米に生まれます。

1807年、数えで9歳の時、「開かずの硯箱」なるものを作り、
寺子屋の友人たちにそれを見せ、
開けるようにいいますが、誰も開けられません。
外見はただの硯箱らしいんですが、
彼は仕掛け施していたのでした。
どんな硯箱なのかはよくわからないんですが、
寄木細工の箱のようなものでしょうか?

そんな彼が目にしたのが当時の祭りで、
見世物となっていた「からくり人形」。
そして、「機巧図彙(からくりずい)」なる手引き書でした。

機巧図彙


機巧図彙

このように絵付きでからくりが解説されています。




これを目にしてからの儀右衛門少年はからくりに没頭、
寝る間も惜しんで創意工夫に励むこととなります。

やがて彼のからくり細工は久留米中に知れ渡り、
頼まれて「久留米かすり」の新しい柄を創案しています。

鼈甲細工師の長男でありながら、家業を継ぐことを拒否し、
からくり興行師として九州各地、上方や江戸などを行脚することに。

各地で彼オリジナルのからくりが評判となりましたが、
特に「弓曳童子」は人気の見世物となりました。

弓曳童子







からくり興行師として成功した彼でしたが、
時代が天保になると、改革の影響で興業が打ちづらくなってしまいます。

1834年、彼は大坂に移り、
見世物ではなく、実用品の開発に取りかかります。
燭台を折りたたんで持ち運びしやすくした「懐中燭台」や、
圧縮空気により油を補給する「無尽灯」などを作りました。

無尽灯


この頃に「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになり、
その後、京へ移り西洋の科学と技術を学びます。

1851年、万年自鳴鐘を作り上げた彼は佐賀藩へ。
このあいだもお書きした、
後に日本赤十字社を立ち上げることになる佐野常民に勧められ、
「蘭癖大名」鍋島直正に仕えます。

この佐賀で蒸気機関車や蒸気船の雛形を作成。

蒸気機関車の模型


明治になって、新政府は彼を新しい首都・東京に呼び寄せます。
政府の依頼で、電信機などを作りますが、
それでは満たされないものがあったのか、
銀座8丁目に新しい工場兼店舗を構えます。
この店舗の看板には

万般の機械考案の依頼に応ず

と掲げられています。
これが東芝の創業とされています。

その後も電気計器、木綿糸取機、報時器などを発明し、
1881年、82歳で永眠。

彼はこういう言葉を遺しています。

知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである


彼の墓にある碑にも

万般の機械考案の依頼に応ず

万般の機械考案の依頼に応ず

とあります。





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