FC町多ゼルビアの誕生・笑 | たたみすとの日常

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仕事もサポーター活動も一生懸命。老舗畳店四代目の雑記帳。

 2030年4月1日。還暦を過ぎた自分にとって、この日ほど待ちわびた日はない。政令指定都市・町多市の誕生である。誤打ではない。町多と書いて“まちた”。これが、旧町田市、旧多摩市が合併し、新たに生まれた人口50万人都市の名称である。

 かつて、南多摩尾根幹線を分水嶺に、南北に分断されていた町田と多摩であったが、祖父に元・国交大臣を持つ若き町田市長・伊藤公太郎(ニックネームはハム太郎)の尽力により、多摩都市モノレールの町田駅延伸、小田急多摩線の、小山田~忠生~横浜線相模原経由の新幹線・倉見新駅への延伸により、ようやく町田と多摩が鉄道で一本に繋がり、元より衆議院選挙区が同一であった二つの市の結びつきが初めて強固なものとなった。

 3月末のJ1開幕より、FC町田ゼルビアはFC町多ゼルビアと改名。古くは、さいたま市誕生後も、大宮アルディージャ、浦和レッドダイヤモンズが改名しなかった事とは対照的に、この新しい都市の名前を全国にアピールする目的も兼ねた改名であった。もちろん、既に旧多摩市内にも少なからずFC町田ゼルビア(当時)サポーターは存在していたが、当時の多摩市長による、「多摩市はヴェルディ」発言により、非常に抑圧される存在だったのである。しかし、それでいながら東京ヴェルディは、2028年シーズンより、豊島園跡に建設された新スタジアムを持つ練馬にあっさりと移転。裏切られた形となった多摩市のサッカーファンは宙に浮いた形となっていた。

 ホームグラウンドは町多市鶴川区野津田の町多市立陸上競技場。2017年、FC町田ゼルビアのJ1昇格初年度に、収容人数1万5千人の立派なスタジアムとなった。その際、周辺地域の環境保全を訴える団体が、工事中止、里山保持を訴え、座り込みなどを行ったが、「人手が入っているから里山なんだろうがよっ!」と、当時の市長は一蹴したのである。

 開幕戦は町多市立陸上競技場(野津田)で行われたFC東京戦であった。昨年のJ2優勝により、FC東京はJ1に復帰。今年は東京の3クラブが初めてJ1に揃うシーズンとなった。既にFC東京-東京Vの東京ダービー、東京V-FC町田ゼルビアの東京クラシック、FC東京-FC町田ゼルビアの南多摩ダービーは存在していたが、この3組を総称して“東京トライアングル”という名称も生まれた。

 FC町多ゼルビアは、昨期をもって長きに渡った酒井良監督が勇退しGMとなり、J初年度に入団し、日本代表としてW杯出場、引退後は解説者として活躍していた庄司悦大監督が就任。新生・FC町多ゼルビアの初年度にして、2度目のJ1制覇を目指すの際してふさわしい体制となった。

 これにより、長く「多摩市はヴェルディ」発言により、多摩市民でありながらFC町田ゼルビア・サポーターであることにより迫害を受け続けた自分は、晴れてホームタウンのチームを応援するという立場を手に入れることが出来たのである。ただ、ゴール裏にいること20年、声はまだまだ出るが、さすがにジャンプが出来なくなっていた。(了)