離婚の代名詞「三下り半(みくだりはん)」 |         きんぱこ(^^)v  

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三下り半(みくだりはん)って知ってますか。


今の学生さんは、知らないそうです。

江戸時代の、いわば離婚届けですね

今の様に市役所や区役所に届けるのではなくて、基本的には男が女性に対して離縁(離婚)を申し立てる証明書の様なものです。

ここまで書くと読んでいる女性は怒っているかもしれません。

(女からは出来なかったそうですから。)

現在はどうかと言うと、役所から離婚届けを貰ってきて、二人で同意すると、互いに署名捺印して、さらに当事者以外の第三者が同意して署名捺印しないと成立しません。
または、家庭裁判所で調停員が間に取り持ち、離婚を互いに認めたら、申し立て人と裁判所が離婚手続きをしておしまい。
ですよね。
因みに家裁で男性が勝つケースは女性に相当酷い理由がない限り数パーセントしかないそうです

さて、三下り半(みくだりはん)

江戸時代の離縁状は、本文が三行と半分になることが多かったらしい。

だから三下り半とも三行半(みくだりはん)とも言われる様になった。

夫が出すもので女性からは出せない。

この辺りが江戸時代の男尊女卑を現していますね。

しかし、実際は女性が強く 妻から夫に書かせるように仕向けたり、女性のための駆け込み寺に逃げ込んだみたいです


それに、妻から「別れてください!」といわれたら、夫は立場上?離縁状を書いてしまうらしいです。


変な話ですね(笑)


いくら男尊女卑でも女は強いということでしょうか。


いや、女が強いから男尊女卑が生まれたのかもしれません。


縁切寺は今の家庭裁判所みたいなものだったのでしょうか。


鎌倉の東慶寺(とうけいじ)や群馬県の満徳寺(まんとくじ)が縁切寺で、離婚したい女性が必死で駆け込んだそうです。


駆け込んだら直ぐに離婚ではなくて、寺が調停して夫と話して、離縁状を書いてもらうか仲直りするかを決める。

離縁が決まると3年間尼さんにならなければいけないのだから、今の家庭裁判所より厳しい(笑)


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東慶寺)

縁切寺は主に尼寺で、夫に追われる妻が縁切寺にもう一歩で間に合いそうに無かった時に、自分の草履を門の中に投げ入れて、間一髪間に合ったという話もあるそうです。


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離別一札の事

一、今般双方勝手合を以及離
 縁 然ル上者其元儀 何方縁組
  いたし候共 私方に二心無
  依之離別一札如件

亥十一月廿四日    長吉

      おせいとの

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離別一札之事

一、深厚宿縁浅薄之事
  不有私 後日雖他え
  嫁 一言違乱無之
  仍如件

弘化四年   国治郎 爪印
八月 日
    常五郎殿姉
     きくどの

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赤い文字のところが大体三行半になっていますよね。


上が

「この度、双方協議の上、離縁いたします。したがって、今後あなたが誰と縁組みしようとも、私に異議はなく、翻意することもありません。以上、本状を以て離別状と致します。」

下が

「深く厚いと思った宿縁は、実は浅く薄かったのです。双方の責によるところではありません。後日、他へ嫁ぐことになろうとも、一切異議無く、前言を撤回することはありません。」



三行半の権威者といえば専修大学 法学部教授 高木侃さん。

(高木侃といえば「みくだりはん」博士  (^^)) (別リンク)


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江戸時代の離婚率は約4%。今は約2.2%だから今の倍の離婚者がいた。


しかし、現在のように恋愛結婚ではなく、家系を守るための政略結婚が多かっただろうから実質は現在とさして変わらないのではないでしょうか。

みなさんのおじいちゃんおばあちゃん、若い人ならひいじいちゃん、ひいばあちゃんの時代は離婚率が1%を切っています。

この時代の女性(明治後半、大正から昭和初期)が一番我慢強かったのかもしれません


次の5つの場合は、妻から一方的に離婚できたそうです。

   1.夫が妻の承諾なしに、妻の衣類など持参財産を質に入れたとき
   2.妻と別居もしくは音信不通つまり事実上の離婚状態が3~4年続いたとき
   3.髪を切ってでも離婚を願うとき
   4.夫が家出して12カ月(古くは10カ月)が過ぎたとき
   5.比丘尼寺(縁切寺)へ駆け込んで、3カ年が経過したとき


1と3がおもしろいですね。


私なんかこの時代に生きていたら1の理由で直ぐに離婚かも(笑)   


ではまた(^^)。