猪熊得郎さんの証言記録「少年兵の無念」3
「戦陣訓」
四一年(昭和一六年)一月に東条英機陸軍大臣が軍の規律を引き締め戦意を高揚させるために「戦陣訓」を示しました。
(軍紀) 「命令一下毅然として死地に投ぜよ」
(生死感) 「生死を超越し……従容として悠久の大義に生きることを悦びとすべし」
(名を惜しむ)「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
満州事変前には二〇万の常備軍を持つのみであった日本陸軍は、一九四一年末には一挙に二五〇万の大軍に拡大されていました。
軍隊の急速動員と、戦争の長期化に伴い軍紀の退廃は急速に進行してゆきます。
「軍人勅諭」と「私的制裁」で服従を強制し軍紀を確立しようとしても、そしてまた、どんな大義名分をたてようとも、それが他国を侵略し、他民族を抑圧するものであれば、軍隊の戦闘力を高める上で兵士の自発的愛国心を期待することは出来なくなります。
そこで、「悠久の大義」という美名をかざし、天皇のために死ぬことを強制する精神的な支柱として、「戦陣訓」がつくられ押しつけられたのでした。
議論は平行線のままで結論が出ません。
どっちも根拠がないわけです。
歩いてでも帰るという一団の中心は特幹同期生の戦友で十七歳でした。
三日間の激論で結論が出ない状況に業を煮やし、彼らは、夜中、武器や食糧を持って兵舎を出て行きました。ごそごそと身支度するのを私たちは感じ取りました。
しかし、止めることは出来ません。
どちらが生きて帰れるかは誰にもわかりません。
彼らの後ろ姿をピスト(戦闘指揮所)の二階の窓から見送りました。
銃を担ぎ、食糧を入れた背嚢を背負い、とぼとぼと飛行場のはずれまで小さくなる影を、じっと無言で見つめていました。
それが彼らとの最後の別れでした。
彼らはまだ日本に還っていません。
生きて虜囚の辱めを受けず。この言葉の強制で、どれほど多くの兵士が、無意味な死を選ばされたことでしょうか。
「天皇の軍隊」
そのうち収拾のつかなくなった部隊長が「自分の身は自分で処せ」なんて言う通達を出しました。無責任な話です。
半分近くが脱走しました。
その時脱走した連中は機関車の運転手にピストルを突きつけ、貨物列車を走らせたのですが、ソ連の飛行機から機銃掃射を受け停車させられ、そしてまた、武装した中国人に襲撃され、命からがら、大部分が部隊に戻ってきました。
部隊長はまた、慌てて、「一丸となって帰り、天皇の御為、祖国再建に尽くす」と命令を出しました。
関東軍に「在留邦人」を守ろうなどという使命感などひとかけらもありませんでした。
日本の軍隊は国民の軍隊でなく天皇の軍隊であり、まさに。
国体護持軍でした。
大本営も、関東軍総司令部も、各級指揮官も、下級兵士の生命や、非戦闘員居留民の保護安全など夢にも考えていませんでした。
国民を見放すことなど当然のことなのでした。
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