猪熊得郎さんの証言記録「少年兵の無念」2 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

猪熊得郎さんの証言記録「少年兵の無念」2

猪熊得郎さんの証言記録「少年兵の無念」1



「根こそぎ動員」

七月五日に策定された関東軍の作戦計画は、ソ連が侵攻してきたときには、満州の広大な原野を利用して持久戦に持ち込む。

主力は戦いつつ後退し、満州国の四分の三を放棄し、関東州大連、新京(長春)、朝鮮北端に接する図門を結ぶ線の三角形の地帯を確保する。

関東軍司令部も新京を捨てて南満の通化に移る。

最後の抗戦を通化を中心とする複廓陣地で行う。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては日本本土を守る。
準備は九月末まで。

ソ連侵攻はその後であろうというものでした。

七月十日には在満の適齢の男子約四十万人のうち、行政、警護、輸送そのほかの要員十五万人ほどを除いた残り約二十五万人が根こそぎ動員されました。

これによって関東軍は七十万に達しました。

しかし、根こそぎ動員兵は老兵が多く、銃剣なしの丸腰が十万人はいたと思はれます。

竹筒の水筒、革靴がなく地下足袋と言った有様でした。

新京では、ガリ版刷りの召集令状に、「各自、かならず武器となる出刃包丁類およびビール瓶2本を携行すべし」とありました。

ビール瓶はノモンハン事件での戦訓もあり体当たり用の火焔瓶であります。

ところが、8月2日、関東軍報道部長の長谷川宇一大佐は、新京放送局のマイクを通してこう放送した。

「関東軍は盤石の安きにある。

邦人、とくに国境開拓団の諸君は安んじて、生産に励むがよろしい……」

「国境開拓団」の住む土地は、作戦上すでに放棄されるとされているにも拘らず、開拓団の人々は騙され、おきざりにされたのです。
この根こそぎ動員が後に在留日本人の悲劇を大きくしたのでした。

街や開拓団には男は老人と子供だけとなりました。

ソ連の侵攻になすすべもありません。

男はシベリア、女性は残留婦人、子供は残留孤児という悲劇が起ったのでした。





「ソ連軍の侵攻」


「本日早朝、東満国境虎頭・虎林よりソ連軍が越境し我が関東軍と戦闘状態に入った。

特別幹部候補生猪熊兵長は、公主嶺飛行場の第二分隊応援のため、無線機材と共に出発せよ」八月九日昼過ぎの命令でした。

早速、新京から南約五〇キロの公主嶺にトラックで駆けつけましたが、二日後「情勢の変化に即応し全満州
に展開する対空無線隊の再編成を行う。

すべての分隊は中隊本部に急ぎ集結せよ」の命令で再び新京に戻りました。

新京の街は戦々恐々としていました。

軍事施設の破壊が始まり重要書類を焼却する黒煙が立ちのぼっていました。

公園や広い道路には防御陣地を構築し、水平射撃でソ連戦車を迎え撃つと高射砲が配置されていました。

「関東軍は最後の一兵まで戦う。電鍵とダイヤルを血に染めよ。関東軍もし破れたならば白頭山に集結せよ」。ソ連機の空襲下、暗闇に蝋燭を灯し、日の丸鉢巻で水杯を酌み交わしました。

故郷東京での家族との思い出が走馬燈のように頭をよぎりました。

ソ連軍は東部牡丹江に迫り、西北部は大興安嶺山脈を突破、また朝鮮北部の雄基、清津等の港から上陸したソ連軍は北朝鮮配備の関東軍を攻撃していました。
私たちの分隊は、朝満国境近くの梅花口飛行場に派遣されることになり、十四日夜、新京駅で貨車に乗り込み出発を待っていました。





「国体護持」「棄兵・棄民」

しかし日本政府は、天皇の国法上の地位を変更しないこととしてポツダム宣言受諾の通告を十日朝行っていました。

一方大本営は「対ソ全面作戦」を発動し満州国の放棄、朝鮮防衛の戦略のもと、十一日には「総司令部は通化に移転する。
各部隊はそれぞれの戦闘を継続すべし」の命令を発して関東軍総司令部の新京離脱、通化への移転が行われました。

また同じ十一日、関東軍総司令部は、一般居留民を置き去りにしての軍部とその家族優先の南下輸送を始めました。

しかも、日本政府と大本営は、ポツダム宣言の受諾と「国体護持」の条件の明確化などの対応に大童で、無条件降伏に伴い関東軍をどう収束するのか、在満居留民の保護をどうするかなどの対策は放置し、まさに「棄兵・棄民」の事態が進んでいたのでした。

事実、旧満州・中国東北部にいた開拓団の三分一の八万人が、戦禍の中で、望郷の想いむなしく命を落とし、取り残された残留婦人・残留孤児は一万五千人以上でした。

私たちの分隊は深夜の命令変更で、再び公主嶺飛行場での、第十三錬成飛行隊との協力となり、十五日昼過ぎ、公主嶺駅に着きました。

駅の様子がおかしいのです。

天皇のラジオ放送があり戦争が終わったというのです。

私たちはとにかく飛行場に向かいました。

十三錬成飛行隊長は「命令など何もない。

我が飛行部隊は最後の一兵まで戦う」と言いました。

分隊は早速ピスト(戦闘指揮所)にはいり、送受信所を開設し、対空無線隊として戦闘行動に参加しました。

戦闘機がソ連戦車群攻撃のため次々と出撃して行きました。

しかし十七日夕刻、関東軍の停戦命令を傍受しました。

ところが「ザ・バイカル方面のソ連戦車を攻撃する」と言って高級将校を乗せた戦闘機が飛び立ちました。

沈みかかっていた兵隊たちがみんな元気になり、一斉に帽子を振り出撃を見送りました。

戦闘機は上空で旋回すると機首を東に向け、日本に向かって飛び去りました。

八月十五日から二日遅れの停戦でした。




 
「撃ち合い・殺人・脱走」

ソ連軍が入る前に混乱が始まりました。

八路軍(中国共産党軍)のゲリラが決起し、満州国軍(日本の傀儡軍)が反乱を起こしました。

日本の植民地的支配で苦しめられていた中国人が日本人を襲撃するようになりました。

襲撃、略奪、暴行、撃ち合い、殺人で街中に死体が転がっていました。

日本軍の兵舎の中ももう全く無秩序です。

街に食糧や衣糧を略奪に出かけるもの。

「あの野郎ひどい目にあわせやがって」と古兵や上官を追いかけ鉄砲を乱射するもの。

撃ち合い。

古参下士官の中には飛行場で自決するものも出て、遺体にガソリンをかけ燃やす炎が燃えさかっていました。

まともな兵隊たちも、どうしても食糧を確保しなければなりません。

食糧や衣料は街の外の貨物廠に集積してあります。

中国人も竹槍を持って群がっています。
こちらも集団で武装して、そこに行きます。にらみ合い一触即発です。

一歩間違えば殺し合いです。

はぐれれば引き込まれなぶり殺しです。脱走が始まりました。
何もかも統制がとれなくなっていました。

敗戦で指揮命令系統もなくなっていました。

私たち十五人の分隊でも今後どうするかという議論になりました。

このまま部隊について行くか。

それとも自分たちだけで単独行動をとるのか。

意見は二つに分かれました。一〇人は、大きな部隊についていった方が生きて帰れる可能性がある、それこそが天皇のためだという意見でした。

私は迷ったあげく、大きな部隊と一緒の側に付きました。

残り五人は「それは捕虜になることだ。

生きて虜囚の辱めを受けず。

歩いてでも日本に帰り祖国再建に尽くすのだ」と反論しました。





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