慟哭の島 サイパン・テニアン
辞書によれば慟哭とはひどく悲しんで大声で泣く、声を立てて泣き叫ぶことと書いてある。
太平洋戦争時のサイパン島・テニアン島はまさに慟哭の島であった
この書き出しで当時の体験をHPにまとめたのは長崎の金谷安夫さんです
慟哭の島その真実
マリアナ諸島 サイパン・テニアン島
戦没者遺骨収集 写真集
撮影:著作 金谷安夫
サイパンの調査をしていた今年2月にこのHPにたどり着きました
そしてメールの印があったので
即刻メールをさせて頂きました
するとすぐに金谷さん本人から返信がきたのです
感激しました
その時のメールをそのままコピーします
2009.2.22 pm21:00
> はじめまして、三重県の中西貴之と申します。
> HPを拝見しメールをさせていただきます。
>
> 私はバンザイクリフに日本本土に向かって観音様を建立された平田照美先生の事務所にて局長を務めております。
> 私どもはサイパンにて30年間毎年1月と7月にサイパン島戦没者をはじめ南島諸島戦没者、第二次世界大戦戦没者までの供養をさせてもらってます。
> 日本では供養してもあまり意味が無く、サイパンに行ってするのが真心のこもったご供養だと信じ、長年続けております。
> 今まではバンザイクリフ、ラストコマンド、スーサイドクリフ、ドンニーの野戦病院、などに出向きお酒、ご飯、お線香などを供えております。地獄谷では飯盒を炊きお供えもしておりました。
しかし、もっと、その場に出向いて供養させてもらえる場所はどこかないものか?ということでHPを隅から隅まで探しておりましたところ貴方様のHPに出会いました。
> 内容を見させていただき感動とともにタナバク地区の場所もわかりました。3月31日にサイパンに行って確認してきます。
> 金谷様はサイパン戦に生き残りでしょうか?お歳はおいくつなのでしょうか
> 私は昭和36年生まれで戦争を知りません
> あったことの事実を知り、それを伝えて、後世に戦争の恐ろしさを教えていくことが使命と思っております。
> できれば7月のサイパン供養に同行いただければ有難いです。
> 私の住所をお知らせ致しまずはご挨拶とさせていただきます。
突然の私からのメールで、しかも文章は行き当たりばったりの内容で大変失礼だったと反省しております。
しかし、翌日の朝には返信を頂いており、それはそれは感動しました
金谷さんからの最初のメールです
2009.2.23 am9:00
私はHPの作者の金谷安夫です。
今回は久しぶりにHPを見て頂き有り難う御座いました。
サイパンのバンザイクリフの観音像建立に関係された 中西様は
毎年戦没者の供養のため 渡島されているご様子。頭が下がります。
私はHPに書いてある様にテニアン島の761海軍航空隊に勤務していました。
1920年大正9年生まれ、今年は89歳になりました。
島を離れるとき、『何時か迎えに来るぞ』 と誓ったように、昭和49年から
慰霊収骨旅行を開始しましたが もう現在では 体の自由が利かず
旅行が困難になりました。
私なりに 亡き戦友に思いを馳せた気持ちで居ます。
国は遺骨収集を止めた様子ですが、慰霊よりも遺骨を収集するのが
先ではないでしようか。
また、サイパン島は思った以上の発展振りで、其の開発では相当量のお骨が
出たのでは と思いますが、それがどうなったか 分かりません。
何といっても 『死んだ人はかわいそうです』
私は沢山の資料を持っています。
またお便りを下さい。
金谷安夫 拝
このあと、メールにていろいろ質問させていただいてます
そして今のサイパン・テニアンの現状を報告しております
私が戦地調査において体験者本人からお話を聞くのは初めてだったので感動でした
そして何よりも、バンザイ突撃の詳しい場所と集団埋葬地の詳しい場所がわかったのは本当に有りがたかったです
それからテニアンの海軍司令部の洞窟や弾薬庫などの検証もできました
体験者の方々は貴重な存在です
もっともっと聞きたいことがあるのですが、三重と長崎の距離と私の時間の無さでなかなかお会いできません
金谷さんはテニアン島からの生還者です
HPでは遺骨収集に参加したことを中心に構成されてます
私のブログでもその遺骨収集の写真を使わせていただいております
サイパン・テニアンにおいては戦死者と民間人の遺骨は半数しか見つかってません
残りの半数はまだ土の中、または海中にあります
テニアンにおいては、米軍上陸時の戦闘にて2000人ほど死者が出たと資料にありますが、金谷さんはその現場をどんだけ探しても何もなかったらしいです
これはどう解釈をすれば良いのか・・・
上陸時の戦闘及びその夜の夜襲は無かったのか?
金谷さん自身は上陸地から遠い所で違う任務であったため確かなことはわからない
これは一つの謎であり、今後の調査に期待するところです
また、サイパンにおいても半数の遺骨は土に眠ってはいるが
民家や私有地が殆んどで、なかなか自由に採掘はできません
戦争経過を調べてわかったことですが
海岸線での戦闘も多かったことから考えると上陸地、バンザイ突撃地、マッピを合わせて6000人ぐらいは海中に沈んだものと思います
だとすれば、陸地に21000・海中に6000の遺骨が残っていると考えられます
遺骨が海中に沈むとどうなるのでしょうか
溶けてなくなるのでしょうか
陸地は地盤が珊瑚ですから、骨は土に返らずそのまま残るそうです
詳しい方は教えてください
この金谷さんの戦争記は自費出版にて本を出されてます
私は自費出版図書館にて借りて読ませていただきました
そしてPDFに全部収めてあります
金谷さんの徴兵からサイパン・テニアンと渡り、サイパンを占領後のテニアンにての任務
そして玉砕後のジャングルでの生活から終戦後の投降
その後の遺骨収集団にての活動まで
それら全てが1冊の本にまとめられてます
「戦塵の日々」です
読まれたいかたは
1、金谷さんのHPにて問い合わせをする
2、私のPDFをコピーする(少々見難い箇所あり)
3、自費図書館にて借りる
やはり体験者の生の情報は状況が手に取るようにわかる気がします
太平洋戦争時のサイパン島・テニアン島はまさに慟哭の島であった
この書き出しで当時の体験をHPにまとめたのは長崎の金谷安夫さんです
慟哭の島その真実
マリアナ諸島 サイパン・テニアン島
戦没者遺骨収集 写真集
撮影:著作 金谷安夫
サイパンの調査をしていた今年2月にこのHPにたどり着きました
そしてメールの印があったので
即刻メールをさせて頂きました
するとすぐに金谷さん本人から返信がきたのです
感激しました
その時のメールをそのままコピーします
2009.2.22 pm21:00
> はじめまして、三重県の中西貴之と申します。
> HPを拝見しメールをさせていただきます。
>
> 私はバンザイクリフに日本本土に向かって観音様を建立された平田照美先生の事務所にて局長を務めております。
> 私どもはサイパンにて30年間毎年1月と7月にサイパン島戦没者をはじめ南島諸島戦没者、第二次世界大戦戦没者までの供養をさせてもらってます。
> 日本では供養してもあまり意味が無く、サイパンに行ってするのが真心のこもったご供養だと信じ、長年続けております。
> 今まではバンザイクリフ、ラストコマンド、スーサイドクリフ、ドンニーの野戦病院、などに出向きお酒、ご飯、お線香などを供えております。地獄谷では飯盒を炊きお供えもしておりました。
しかし、もっと、その場に出向いて供養させてもらえる場所はどこかないものか?ということでHPを隅から隅まで探しておりましたところ貴方様のHPに出会いました。
> 内容を見させていただき感動とともにタナバク地区の場所もわかりました。3月31日にサイパンに行って確認してきます。
> 金谷様はサイパン戦に生き残りでしょうか?お歳はおいくつなのでしょうか
> 私は昭和36年生まれで戦争を知りません
> あったことの事実を知り、それを伝えて、後世に戦争の恐ろしさを教えていくことが使命と思っております。
> できれば7月のサイパン供養に同行いただければ有難いです。
> 私の住所をお知らせ致しまずはご挨拶とさせていただきます。
突然の私からのメールで、しかも文章は行き当たりばったりの内容で大変失礼だったと反省しております。
しかし、翌日の朝には返信を頂いており、それはそれは感動しました
金谷さんからの最初のメールです
2009.2.23 am9:00
私はHPの作者の金谷安夫です。
今回は久しぶりにHPを見て頂き有り難う御座いました。
サイパンのバンザイクリフの観音像建立に関係された 中西様は
毎年戦没者の供養のため 渡島されているご様子。頭が下がります。
私はHPに書いてある様にテニアン島の761海軍航空隊に勤務していました。
1920年大正9年生まれ、今年は89歳になりました。
島を離れるとき、『何時か迎えに来るぞ』 と誓ったように、昭和49年から
慰霊収骨旅行を開始しましたが もう現在では 体の自由が利かず
旅行が困難になりました。
私なりに 亡き戦友に思いを馳せた気持ちで居ます。
国は遺骨収集を止めた様子ですが、慰霊よりも遺骨を収集するのが
先ではないでしようか。
また、サイパン島は思った以上の発展振りで、其の開発では相当量のお骨が
出たのでは と思いますが、それがどうなったか 分かりません。
何といっても 『死んだ人はかわいそうです』
私は沢山の資料を持っています。
またお便りを下さい。
金谷安夫 拝
このあと、メールにていろいろ質問させていただいてます
そして今のサイパン・テニアンの現状を報告しております
私が戦地調査において体験者本人からお話を聞くのは初めてだったので感動でした
そして何よりも、バンザイ突撃の詳しい場所と集団埋葬地の詳しい場所がわかったのは本当に有りがたかったです
それからテニアンの海軍司令部の洞窟や弾薬庫などの検証もできました
体験者の方々は貴重な存在です
もっともっと聞きたいことがあるのですが、三重と長崎の距離と私の時間の無さでなかなかお会いできません
金谷さんはテニアン島からの生還者です
HPでは遺骨収集に参加したことを中心に構成されてます
私のブログでもその遺骨収集の写真を使わせていただいております
サイパン・テニアンにおいては戦死者と民間人の遺骨は半数しか見つかってません
残りの半数はまだ土の中、または海中にあります
テニアンにおいては、米軍上陸時の戦闘にて2000人ほど死者が出たと資料にありますが、金谷さんはその現場をどんだけ探しても何もなかったらしいです
これはどう解釈をすれば良いのか・・・
上陸時の戦闘及びその夜の夜襲は無かったのか?
金谷さん自身は上陸地から遠い所で違う任務であったため確かなことはわからない
これは一つの謎であり、今後の調査に期待するところです
また、サイパンにおいても半数の遺骨は土に眠ってはいるが
民家や私有地が殆んどで、なかなか自由に採掘はできません
戦争経過を調べてわかったことですが
海岸線での戦闘も多かったことから考えると上陸地、バンザイ突撃地、マッピを合わせて6000人ぐらいは海中に沈んだものと思います
だとすれば、陸地に21000・海中に6000の遺骨が残っていると考えられます
遺骨が海中に沈むとどうなるのでしょうか
溶けてなくなるのでしょうか
陸地は地盤が珊瑚ですから、骨は土に返らずそのまま残るそうです
詳しい方は教えてください
この金谷さんの戦争記は自費出版にて本を出されてます
私は自費出版図書館にて借りて読ませていただきました
そしてPDFに全部収めてあります
金谷さんの徴兵からサイパン・テニアンと渡り、サイパンを占領後のテニアンにての任務
そして玉砕後のジャングルでの生活から終戦後の投降
その後の遺骨収集団にての活動まで
それら全てが1冊の本にまとめられてます
「戦塵の日々」です
読まれたいかたは
1、金谷さんのHPにて問い合わせをする
2、私のPDFをコピーする(少々見難い箇所あり)
3、自費図書館にて借りる
やはり体験者の生の情報は状況が手に取るようにわかる気がします