サイパン総集編 地獄谷の真実
地獄谷についてはサイパン戦経過で見てきた通りですが
4人の自決の説が証言者によってさまざまです
いかに事実を追求することが難しいか
またサイパン戦において、正確な日記がいかに少ないか
しかし地獄谷については事実を追求することは大事なことです
南雲中将や斉藤中将の供養は
どのように最後を遂げたのかを知った上で
ようやく、心からの供養が出来ると思うからであります
この地獄谷は極楽谷と背中合わせで
極楽谷は、海軍の唐島隊が演習をしていて
副官が冷たい水が流れているのを見て
ここは極楽だ!と言ったことから極楽谷と呼ばれるようになった
地獄谷は比較的平坦な地形の極楽谷とは対象に
深く険しい地形にサイパン一大きい樹林が繁っていたので
地獄と呼ばれるようになった
地獄谷の洞窟が陸海軍最終司令部になったことは
サイパン戦の経過にて書きました
そしてそこで南雲中将を始め、斉藤中将、井桁、鈴木両参謀長の
自決のことも書きました
しかし、この自決については
時間も自決した人も書物によってさまざまな記事になっています
本当の状況を明らかにしたいと思います
これらを調べるのに都合の良い本があります
小野進也著「タッポーチョ」です
いろんな説があることをまとめあげてます
まず福田幸弘著「連合艦隊-サイパン・レイテ海戦記」によると
「訓示の後、7月6日9時から10時頃のあいだに、南雲長官・斉藤師団長・井桁・矢野両参謀長は、最後の突撃に先立って自決した。これと前後して、第五根拠地隊司令官辻村少将・辻北部支庁長なども相次いで自決した」となっている
つまり、4名一緒に自決し、時間は7月6日午前としている
次に豊田譲著「波まくらいくたびぞ」によると
「南雲長官は7月6日の夜、地獄谷の陸軍の別の洞窟で斉藤中将と井桁少将が自決したことを知り、残余の海軍将兵を集め、前日の訓示を行った後、では今から突撃する。全員おれに続け。と、襟章をむしった軍装のまま、戦闘帽も黒線のない兵用をかぶって、拳銃を構え、タナパグの米軍に向ってバンザイ突撃を行った。南雲中将は乱戦にまぎれてマタンシャからタナパグあたりのいずれかで最後を遂げた。時刻は7月7日の未明だと推定される。」
としている
つまり、南雲中将だけは他の将軍たちとは別行動であり、期日も7月未明だと言うのである
また、第43師団参謀の平櫛中佐の手記「43師団サイパン玉砕記」によれば、6日の午前10時ころ、合同司令部の近くの洞窟で南雲中将・斉藤中将・井桁少将の自決が行われたとしている。
介錯は3人の副官(南雲-荘林海軍中尉、斉藤-牧野陸軍少尉、井桁-柳本陸軍中尉)が拳銃で行ったと説明している。
この説は信頼性が高いが、これにも弱点がある。
それは決行の瞬間、平櫛中佐は海軍士官と話すために暫時その場を離れていた。
その場を目撃していないという事実を彼は認めている。
米国のピュリツァー賞受賞作家のジョン・トーランドは、その膨大な著書「大日本帝国の興亡」の中で、
「地獄谷の最後の洞窟の中には、南雲中将、斉藤中将、井桁少将の3人の将官が自決を覚悟して潜んでいた。7月6日の朝、斉藤中将は告別の辞を平櫛参謀に伝えた。3人は自決のために新しい洞窟に移り、切腹と同時に介錯の副官が後頭部を撃った。時刻は7月6日午前10時頃とみられる。」
と、平櫛説に近い。
この話の情報源は平櫛中佐ではないかと思われるが、そうとも言い切れない
戦史家モリソン博士の描写は次の通りである
「7月6日の夜の最後の突撃はタナパグの陸軍27師団に向けられた。ホーランド・スミスはこの夜の突撃を27師団に予告していたが、同師団はそれに備えることを怠っていた。7日の午前3時45分、少なくとも3000名の日本人が防御陣の間隙を縫って突入してきた。みな万歳、七生報国を叫んでいた。
米軍の死者は406名で日本人の死者は4311名の死体を戦場に残していた。
この最後の突撃前に、南雲中将と斉藤中将の二人は自決しており、大部分の幕僚は後を追った。斉藤中将は切腹と共に介錯の副官に拳銃で撃たれ、その遺体はガソリンをかけて焼却された。
その遺骨と灰は確認の上、ホーランド・スミスによって陸軍中将のランクに応じた礼式で埋葬が行われた。
斉藤中将が自決した洞窟の近くにいた南雲中将は、60名の幕僚と共にいたが、6日にピストルで自決した。遺体と遺品はなんの痕跡も残さないように埋葬された。」
南雲中将に最後まで付き添った海軍兵石川倉太郎の証言が、昭和54年9月1日の埼玉新聞に残されている
「7月6日午後6時石川兵長らの残存兵はマタンシャ海岸の集結地二〇五高地に向った。そのヤシ林の中に、約3千名が集結していた。その中に参謀数名と南雲中将がいた。戦闘服に半ズボン、半袖シャツ、第二種戦闘帽をかぶって、腰に拳銃という身なりであった。3時半、南雲中将の右手が上がって、突撃が開始された。4キロほど南下したところで、機銃掃射を受け南雲中将が足に被弾した。石川兵長は倒れた中将を近くの洞窟に運び、同行者は下田峰夫兵長と参謀二人だった。南雲中将は終始無言であったが、やがて本土の方を向き、天皇陛下万歳と叫んで拳銃で頭を撃った。時に4時30分であった。二人の参謀は続いて自決した。石川兵長は洞窟を飛び出し、それから丸二年後の21年8月に降伏した。」
この説は豊田説に近い。信頼できる要素も多い。
特志従軍看護婦の三浦静子さんは、手榴弾で自決する前に井桁少将に会っており、手記には井桁少将は一人で自決したように書いている
どれもこれも本当のような話であります
関係者の話はみな異なっており、真相は闇の中です
戦記というものの限界を知らされる思いです
真相を究明するには
斉藤中将か南雲中将に直接聞くしかありません
そこで先日紹介しましたサイパンの供養を始めて30年
霊能者平田照美が真相を明かします
4人の自決の説が証言者によってさまざまです
いかに事実を追求することが難しいか
またサイパン戦において、正確な日記がいかに少ないか
しかし地獄谷については事実を追求することは大事なことです
南雲中将や斉藤中将の供養は
どのように最後を遂げたのかを知った上で
ようやく、心からの供養が出来ると思うからであります
この地獄谷は極楽谷と背中合わせで
極楽谷は、海軍の唐島隊が演習をしていて
副官が冷たい水が流れているのを見て
ここは極楽だ!と言ったことから極楽谷と呼ばれるようになった
地獄谷は比較的平坦な地形の極楽谷とは対象に
深く険しい地形にサイパン一大きい樹林が繁っていたので
地獄と呼ばれるようになった
地獄谷の洞窟が陸海軍最終司令部になったことは
サイパン戦の経過にて書きました
そしてそこで南雲中将を始め、斉藤中将、井桁、鈴木両参謀長の
自決のことも書きました
しかし、この自決については
時間も自決した人も書物によってさまざまな記事になっています
本当の状況を明らかにしたいと思います
これらを調べるのに都合の良い本があります
小野進也著「タッポーチョ」です
いろんな説があることをまとめあげてます
まず福田幸弘著「連合艦隊-サイパン・レイテ海戦記」によると
「訓示の後、7月6日9時から10時頃のあいだに、南雲長官・斉藤師団長・井桁・矢野両参謀長は、最後の突撃に先立って自決した。これと前後して、第五根拠地隊司令官辻村少将・辻北部支庁長なども相次いで自決した」となっている
つまり、4名一緒に自決し、時間は7月6日午前としている
次に豊田譲著「波まくらいくたびぞ」によると
「南雲長官は7月6日の夜、地獄谷の陸軍の別の洞窟で斉藤中将と井桁少将が自決したことを知り、残余の海軍将兵を集め、前日の訓示を行った後、では今から突撃する。全員おれに続け。と、襟章をむしった軍装のまま、戦闘帽も黒線のない兵用をかぶって、拳銃を構え、タナパグの米軍に向ってバンザイ突撃を行った。南雲中将は乱戦にまぎれてマタンシャからタナパグあたりのいずれかで最後を遂げた。時刻は7月7日の未明だと推定される。」
としている
つまり、南雲中将だけは他の将軍たちとは別行動であり、期日も7月未明だと言うのである
また、第43師団参謀の平櫛中佐の手記「43師団サイパン玉砕記」によれば、6日の午前10時ころ、合同司令部の近くの洞窟で南雲中将・斉藤中将・井桁少将の自決が行われたとしている。
介錯は3人の副官(南雲-荘林海軍中尉、斉藤-牧野陸軍少尉、井桁-柳本陸軍中尉)が拳銃で行ったと説明している。
この説は信頼性が高いが、これにも弱点がある。
それは決行の瞬間、平櫛中佐は海軍士官と話すために暫時その場を離れていた。
その場を目撃していないという事実を彼は認めている。
米国のピュリツァー賞受賞作家のジョン・トーランドは、その膨大な著書「大日本帝国の興亡」の中で、
「地獄谷の最後の洞窟の中には、南雲中将、斉藤中将、井桁少将の3人の将官が自決を覚悟して潜んでいた。7月6日の朝、斉藤中将は告別の辞を平櫛参謀に伝えた。3人は自決のために新しい洞窟に移り、切腹と同時に介錯の副官が後頭部を撃った。時刻は7月6日午前10時頃とみられる。」
と、平櫛説に近い。
この話の情報源は平櫛中佐ではないかと思われるが、そうとも言い切れない
戦史家モリソン博士の描写は次の通りである
「7月6日の夜の最後の突撃はタナパグの陸軍27師団に向けられた。ホーランド・スミスはこの夜の突撃を27師団に予告していたが、同師団はそれに備えることを怠っていた。7日の午前3時45分、少なくとも3000名の日本人が防御陣の間隙を縫って突入してきた。みな万歳、七生報国を叫んでいた。
米軍の死者は406名で日本人の死者は4311名の死体を戦場に残していた。
この最後の突撃前に、南雲中将と斉藤中将の二人は自決しており、大部分の幕僚は後を追った。斉藤中将は切腹と共に介錯の副官に拳銃で撃たれ、その遺体はガソリンをかけて焼却された。
その遺骨と灰は確認の上、ホーランド・スミスによって陸軍中将のランクに応じた礼式で埋葬が行われた。
斉藤中将が自決した洞窟の近くにいた南雲中将は、60名の幕僚と共にいたが、6日にピストルで自決した。遺体と遺品はなんの痕跡も残さないように埋葬された。」
南雲中将に最後まで付き添った海軍兵石川倉太郎の証言が、昭和54年9月1日の埼玉新聞に残されている
「7月6日午後6時石川兵長らの残存兵はマタンシャ海岸の集結地二〇五高地に向った。そのヤシ林の中に、約3千名が集結していた。その中に参謀数名と南雲中将がいた。戦闘服に半ズボン、半袖シャツ、第二種戦闘帽をかぶって、腰に拳銃という身なりであった。3時半、南雲中将の右手が上がって、突撃が開始された。4キロほど南下したところで、機銃掃射を受け南雲中将が足に被弾した。石川兵長は倒れた中将を近くの洞窟に運び、同行者は下田峰夫兵長と参謀二人だった。南雲中将は終始無言であったが、やがて本土の方を向き、天皇陛下万歳と叫んで拳銃で頭を撃った。時に4時30分であった。二人の参謀は続いて自決した。石川兵長は洞窟を飛び出し、それから丸二年後の21年8月に降伏した。」
この説は豊田説に近い。信頼できる要素も多い。
特志従軍看護婦の三浦静子さんは、手榴弾で自決する前に井桁少将に会っており、手記には井桁少将は一人で自決したように書いている
どれもこれも本当のような話であります
関係者の話はみな異なっており、真相は闇の中です
戦記というものの限界を知らされる思いです
真相を究明するには
斉藤中将か南雲中将に直接聞くしかありません
そこで先日紹介しましたサイパンの供養を始めて30年
霊能者平田照美が真相を明かします