サイパンのトラに日本の心を見た 何故サイパンに行くのか | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

サイパンのトラに日本の心を見た 何故サイパンに行くのか

サイパンの敗残兵はジャングルの中で1年経ってもアメリカ兵と戦っていた


先に紹介した大場隊は有名な話ですが


日本兵士にはとてつもない兵隊もいたことを紹介せずにはおれません


ひたすら友軍のサイパン奪回を信じてジャングル生活を続けた日本兵の中に
堀内今朝松一等兵に率いられる「はだか部隊」があった
堀内一等兵はアメリカ兵を100人殺すと豪語し、米軍を見ると狂犬のように
歯をむき出して向っていった

堀内今朝松は松本の歩兵50連隊の補充兵としてトラック島に渡る途中、
サイパンで米軍の上陸作戦に遭遇した部隊である牛山隊の一員だった

彼の様相は異様なものがあった
99式軽機関銃を首から前に吊るし、腰には軍刀をぶら下げ、2挺の拳銃を両腰に装備していた
あるときは浴衣を羽織ったり、あるときは米軍から奪った迷彩服を着た
軍刀はもちろん拾ったか奪ったもので、拳銃もアメリカ兵のものだ

背中一面に般若の刺青が彫られ、凄みがあった

生まれつき喧嘩早い性格と高い戦闘能力に加えた確かな腕により
仲間のリーダーになっており、常に10人ぐらいの部下を引き連れていた

ホリウチの名は米軍内では有名であり、この男の首に5千ドルの懸賞金がかかった
あまりにも暴れん坊ぶりに日本兵からも恐れられた

ある日、食事の用意で火を焚いていると
「バカ野郎!火をたけば敵に見つかるじゃないか!」
すごい剣幕で怒鳴り散らし
必ずその飯盒を全部撃ち抜いた
せっかくの食糧を台無しにされても、怒ることもできず、震え上がった

米兵が「デテコイ、デテコイ」と呼びかけると
堀内は「ヤンキー、出て来い」と言って前に立ちふさがり機銃を乱射した

米軍の兵舎にも白昼堂々と忍び込み、食糧を盗みにいくこともあった
米軍は「堀内を探せ」のビラをつくりジャングルにまいた
協力した日本兵にも賞金を出すというものだった




19年7月9日の米軍によるサイパン占領時には民間人も含む
3千とも4千ともいわれるほどの日本人がジャングルに潜んでいた
ジャングルの生活は飲み水と食糧の問題が常に問題だったが
捕虜収容所の農場によって多くのものは救われた
また米軍からの食糧の盗み、野ねずみの捕獲、パンの木の実なども主な生活の柱であった
ねずみは海水に漬けて焼いて食べれた
南米から強壮剤として輸入していた食用カタツムリが繁殖し
スコールのあとはビッシリと地面を這っていたので良い栄養源となった
カタツムリ退治用の食用カエルもグアムから輸入されていたためカエルも食べれた
気候も良く、マラリアもなく、サイパンには蛇がなく、努力をすればジャングルでも充分生きれた

20年にはいり終戦の頃には米軍による掃討作戦も激しくなり
山に潜む日本兵は70から80名になっていた
タポチョ山南西のタコ山の洞窟には大場隊、ハグマン半島海岸の洞窟には歩兵40連隊第3大隊(河村隊)の本部付である田中祐徳中尉率いる部隊があった

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大場隊が潜んでいた場所

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田中祐徳中尉が潜んでいたハグマン半島


大場栄大尉は堀内とは何度と面会しており、行動を共にするときもあった
この異様な人物には一目おいており、
誰も呼びつけにはしなかった

19年11月には米軍による掃討作戦が始まった
大掃討が敢行されても大場隊は見つかることがなかった
しかし、20年4月には新任の米兵中尉らは手柄を立てたくて執拗にジャングルにやってきた
この日は大場隊が隠れ屋を移動することとなり、隊列をつくって崖山を目指して移動した日と重なった
米軍の掃討作戦も崖山をしらみつぶしに行うというものだったのです
堀内は部下と思われるのを避けて、最後方を少し間隔を空けてついていった

安全な場所に移るはずの大場隊の隊列めがけて米軍が押し寄せた
用意周到に計画された掃討に大場隊は沢山の死者をだした
絶体絶命の大場隊長は崖山の頂上に一人取り残された
覚悟を決め両手に拳銃を持ち立ち上がろうとした、そのとき、
99式機関銃が山の下の押し寄せる米軍の更に後方から鳴り響いた

堀内今朝松一等兵であった
次々に米兵を撃ち抜いていき
堀内は何人撃ったかを数えていた
顔はニヤっとしていたという

米軍は2小隊いたが、さらに援軍の2小隊が迫った
堀内は仁王立ちで撃ち続けた
米兵も激しく撃ち続けている

堀内の体には何発もの弾が当たっていた
何発どころではない
300、400人の米兵が一点に集中しているのだ
しばらくして機銃の音は止んだ

大場大尉はその隙に包囲された崖山から退避し
下を見下ろせる位置まで行くと、米兵が倒れた日本兵の周りに寄って遺体を調べていた
ボコボコの亡骸のシャツのめくれたところから
般若の刺青が見えていた
大場はカッと頭に血が上り、あるだけの弾を米兵に撃ったという

そして大場隊が山を下る前夜、隊長は堀内一等兵のことを考えていた
部隊全員の命を救った勇敢さに感謝の気持ちは強かっただろう


米軍キャンプではサイパンタイガー堀内今朝松一等兵は死んだ
しかし更に40人以上のアメリカ兵が犠牲になった 
と、ターゲットニュースは報じた


堀内今朝松一等兵
この男は見るからにヤクザであり、無法者であったが
彼なりの倫理的規範はあったものと思われる
米軍の掃討作戦からは逃げることが多かった日本兵の中で
彼だけは違っていた
そして多くの命を救った
おそらくこれまでも、こうして自分が犠牲になり日本軍を救ってきたのであろう

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三重県三重郡菰野町に凄すぎる霊能者がいる

サイパンにて戦没者の供養をやり始めて30年
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参加者100人ほどが写経を書いたロウソク1千本の千灯供養

バンザイクリフに平和観音建立して21年
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「千代八千代 かけて祈らん この平和
     むだにされまじ ますらをの死を」

その5年後に観音像の前にお骨が置いてあり
即座に観音像の後方に納骨陵を建立した

この霊能者は平田照美
昨年、1月に塩田芳享著者 文藝春秋
「再会」死んだ家族にもう一度逢える
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この本で著者は平田照美のことを詳しく調べて本にまとめました

霊能者平田照美については、いつか特集を組むとして
ここでは、この霊能者平田照美によってサイパン戦事情の多くの謎が判明している
今日、紹介した堀内一等兵の力は、魂となっても凄まじい力を持っているという
以下は霊能による堀内今朝松さんの言葉です

「焼け野原の中でみんな腹を切った」

「一人生き残って泥の中に潜った」

「私は悪でなく正義である」

「軍刀は盗んだ、自分のものはボロボロ」

「アメリカの国旗をふんどしにしていた」

「最後は800発もの銃弾を食らったが、魂だけは撃てまい」

大場大尉を助けた時は800発もの銃弾を受けたのでしょう

こうして他に斉藤師団長、南雲中将、井桁参謀長、小畑中将らの言葉も頂いてます
よって30年も供養が続けることができるのです

私はこの供養にご一緒させていただいてから、すでに20年近くなりました
今ではサイパンだけでなく、第二次世界大戦での戦没者全体の供養をさせていただいてます

何故、こんなにサイパンに供養に出かけるのか
わかっていただけたでしょうか

そうです

戦没者たちが待っているから行くのです
美味しい米と酒を持って・・・