◆彼は内気なプレミア・ハーモニカ・プレイヤー♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<サイドマンはモゴモゴしゃべる>>



男子たるモノ。

ヒトの前に立って!




「OH!」





意思表示をハッキリとして!





「OH!」





リーダーとしての自覚を持ち!





「OH!」






あとに続く人々の

牽引約(けんいんやく)となって!






「OH!」







そのタメには、

自己管理を徹底して、





「OH!」





自(みずか)らが

人々の見本ならなくてはならない!






「イヤ~ッ!テンション高いですね。」








特に人前でパフォーマンスをする方にとっては

必要な姿勢ではないでしょうか。







「そうですね。

非常に魅力的でもありますし、

エネルギーの高さも尋常でなないかと

思われます。」





「その様な方は、

影響力のあるリーダーとなる

存在なのではないでしょうか?」








ところが・・・。


ですね。




「ハイ」




今回ご紹介の彼はと言いますと。






「ハイ」





まず性格が内向的だった様です。





(まず性格が内向的だった様です。)






「ホォ~・・・。」






それにトークが

あまり得意でななかった様で



その喋(しゃべ)り方も

口の中でモゴモゴ言う様な感じだった

そうです。



当のご本人は嫌っていた様ですが、

"Mumbles,"「ブツブツ言う」と言う

ネームまでつけられました。





「ウ~ン。」






その内気なところは

彼の名前についての

こんなエピソードがあります。






「ホウ~!興味あります。^^」








最初に自分がつけた名前だったのですが、

他の方が使ったからと言って

付けた名前をワザワザ変更してあげたのです。







「それはお人良しですね。」






その姿勢は彼の活動にも

顕(あらわれ)れています。






「ホウー。どの様な?」







バンドのメインで活躍するよりも

サイド・マンとして


バンドをバック・アップする側の仕事が

多かったそうです。






「確かにステージに立って

パフォーマンスする

仕事についているヒトの中では

珍しいタイプの方かもしれませんね。」








でもある意味。

彼のその相手を引き立たせる姿勢が

返って他のバンドに・マンにとっては



その能力を発揮するコトが

できたのではないでしょうか?






「なるほど」





「彼のそれは決して目立たなくとも

その陰ながら支える姿勢が

バンド全体を盛り立てていたワケですネ!」







<<ビッグ・ウォルター・ホートン登場!>>




今回ご紹介するブルーズ・マンは

ビッグ・ウォルター・ホートンです。



(今回ご紹介するブルーズ・マンは
ビッグ・ウォルター・ホートンです。






ホートンのハーモニカ・スタイルは、

甘いトーンで、


他のハーモニカ奏者に比べ、

強弱法には頼っていないと言われています。






「確かにやたら演奏に

絡(から)む感じではないですね。」









彼のソロはしばしば、魂(ソウル)を

揺さぶるというよりは、

落ち着かせると言った方が

似合うとも言われいます。





「ウ~ン。

言われてみれば、

確かにココロの奥底から・・・。」




「まるでマグマの様に感情を沸き立たせる

と言うよりは、

シットリと抑えた感じです。」







それでいて存在感が

乏(とぼ)しいかと言うと・・・。






「マッタクその様な印象はありませんネ!」



「むしろもっと傍(そば)にいて

寄り添っていて欲しい・・・。


その様な印象があります。」








その印象を持つ方は

他にも多くいた様です。






「と言いますと?」






彼はサイドマンとして

多くのアーティストを支え

数々のアルバムやセッションに参加します。






「さすがです。」





彼は自身の特性を知っていて

無理なくその特性を充分に活かして、



他のアーティストたちを

支えたのではないでしょか?






「そうしますと、

人前に立つお仕事だからと言って・・・。」







身の丈に合わないコト

自分の特性に合わないコトを

無理にするコトが果たして正解かどうか?


ですが・・・。






「必ずしもそうとは言えないのでは

ナイのかもしれませんネ!」






彼はブルーズ史上

第1級のハープ奏者として

記憶されているそうです。







あのウィリー・ディクソンですが・・・。




(ウイリーディクソン)





「あの元ボクサーの

ベーシストですね。」






かつて彼のコトを

「私がこれまでに聴いた中で、

最高のハーモニカ・プレイヤー」


と呼んだそうです。







☆Big Walter Horton ♪


☆Big Mama Thornton, John Lee Hooker,
 Big Walter Horton & Dr Ross ♪



☆Big Walter Horton - Blues Harp Shuffle.wmv ♪


☆BIG WALTER "SHAKEY" HORTON W/
BUDDY GUY - CHRISTINE - LIVE 1965 ♪







☆ビッグ・ウォルター・ホートン BIG WALTER HORTON


本名:ウォルター・ホートン



 (1917年4月6日- 1981年12月8日)



ウォルター・ホートンは

ビッグ・ウォルター・ホートン

または"シェーキーズ"ホートンとよく知られている。


アメリカン・ブルーズのハーモニカ奏者。





ホートンは

Little Walter Jacobsや





(Little Walter Jacobs)






Sonny Boy Williamson (Rice Miller)





(Sonny Boy Williamson)






Junior Wells、James Cottonといった





(Junior Wells)







(James Cotton)






戦後のシカゴ・ブルース・シーンにおいて

影響力を持ったハーモニカ奏者達に

匹敵すると言われており、




ブルースの史上第一級のハーモニカ奏者の


1人として記憶されている。









リトル・ウォルターと共に、

ホートンは近代のボリュームの増幅された

シカゴ・スタイルのハーモニカを定めた。




ホートンは大音量と

ゆったりとした時間の感覚の

ハープ奏者(リトルウォーターを含む)ではない。






ホートン(いくらか内気だったと

言われている)は、

ナチュラル・グループのリーダーでなくて、


したがってほとんどソロ・アルバムを

作らなかった。







 彼の最高の仕事は、

サイドマンとしてであり、



バック・アップ・ハーモニカと

ハープ巨匠と言われている彼のソロは、



多くの偉大なシカゴ・ブルーズの

レコーディングを飾った。



そして、それ以外はダイナマイト・ジャムに

良いカットを回していた。







ホートンの創造的なハープのリフと


暖かく柔軟な表現は、

Johnny Shines






(Johnny Shines)





Willie DixonOtis Rush始め、




(Otis Rush)





戦後のブルースマン達のレコードを

美しく飾っている。




ウィリー・ディクソンは、

かつてホートンを

「私がこれまでに聴いた中の最高のハーモニカ奏者」

と呼んだ。








< 略 歴 >



ウォルター・ホートンはミシシッピー州

ホーンレイクに生まれた。



彼は5歳になるまでには独学で

ハーモニカを演奏していた。


彼は10代前半にはテネシー州メンフィスに住んでいた。


彼はハープ奏者のWill ShadeやHammie Nixonと






(Will Shade







(Hammie Nixon)






一緒に働いたコトで、

楽器について多くのコトを学んだ。






1920年代後期にMemphis Jug Bandとそこで

初期の録音がなされたと言われている。





(Memphis Jug Band)






そのドキュメントはそこには存在しないが・・・。


幾人かのブルーズ研究者によると

多分それはホートンのでっち上げだろうと

述べられている。




(彼はまた Little Walterや

最初のSonny Boy Williamson

にハーモニカをいくらか教えたと主張した。


しかしその主張は証拠立てられない。


そして年長者のウイリアムソンに教えた

と言われる件に関しては疑問だ。)








通常、メンフィス街角だけでなく

南部地方のダンスとジュークジョイント巡りをした。





彼の仲間の多くと同様に、

彼は、乏しい収入で生活していて、



人種差別のあるアメリカ合衆国で

恒常的な差別に耐えることに

キャリアの多くを費やした。








1930年代には、彼はミシシッピ・デルタ地域の

全域でいろいろなブルース・パフォーマーと

演奏した。




彼の最初のレコーディングは1939年に

メンフィスで、

OkehとVocalionレーベル用のDoyleの録音で


ギタリストのLittle Buddy Doyleのバックを

務めたと一般的には認められている。





(Little Buddy Doyle)





これらの録音はその中に

Sleepy John Estes




(Sleepy John Estes)





彼のハーモニストの

Hammie Nixonによる大衆化された

アコ-スティック・デュオ・フォーマット

があった。






「Memphis Harp & Jug Blowers」






これらの録音ではまだホートンのスタイルは

完全ではなかった。

だが、ハッキリとしたヒントを得た。





彼は最初になるだろうが、

1940年の早い時期に増幅されたハープを

吹くコトを主張したのだった。






結局彼は健康を害して、生計を立てるために

ハープを止めた。

そして1940年代は主に音楽業界の外で働いた。







ホートンは40年代後半にシカゴへ引っ越したが、

しばしば、SunとModern/RPMレーベルの

録音の日程のために

メンフィスに戻るコトになった。









Johnny Shinesは

Sonny Boy Williamson (Rice Miller)

がレッスンのためにウォルターのところへ

通ったことを思い出した。





彼はまたLittle Walter Jacobs が

名乗る以前に

"Little Walter"を使っていたが、

Jacobsにその名前を譲ったと言っている。



Jacobsは彼が 1940年代メンフィスの

Big Walterのトコロへに"通った"ことを認めている。



ホートンは後に、彼自身を区別する為に

"Big Walter"を名乗った。









1951年彼はModern/RPMレーベルの録音を

"Mumbles,"「ブツブツ言う」の名前で4面行ったが

その名前が好きではなかった様だ。



また、演奏するトキの彼の頭の動きから

"Shakey"「シェイキー」として知られた。










1950年代初期までには、彼は再び音楽を始めた。

そしてメンフィスでサン・レコード用に

Sam Phillipsのための最初の録音のひとつだった。


後にElvis Presley, Carl Perkins






(Elvis Presley







(Carl Perkins)





そしてJohnny Cashの録音を手がけるコトになる。






(Johnny Cash)






「Walter's Instrumental」Memphis Recordings 1951







サンからの初期のビッグ・ウォルターの録音は

若きPhineas Newborn, Jr.のピアノからだった。


後に彼はジャズ・ピアニストとしての名声を得た。






(Phineas Newborn, Jr.)


 



このときの

彼のインストゥルメンタル・トラックは

 Ivory Joe Hunter





( Ivory Joe Hunter)





"I Almost Lost My Mind"

をベースにした

 "Easy"の録音だった。









1950年代初期の間に

彼がシカゴ・ブルース・シーンに登場して、

しばしばメンフィスの音楽仲間や

デルタのミュージシャンたちと演奏した。


彼らの中にはギターリストのEddie Taylorや

Johnny Shinesなどがおり

北部に移動したりもした。





(Eddie Taylor)






1952年の末にJunior Wellsが

軍隊に徴兵されたために

Muddy Waters bandを去ったとき、





(Muddy Waters band)





ホートンは1953年1月にウォーターズと

ひとつのセッションの演奏用に

充分なロング(セッション)により

彼の代理を務めた。






その時ホートンのスタイルは

完全に成熟したモノになった。


そして彼はかなり誇張されたスタイルで

演奏していて、

そのスタイルがシカゴ・ブルーズ・サウンドの

トレードマークのヒトツなった。




彼はまたタン・ブロッキングの様な

技術を多用した。








 彼は"Flood,""My Life Is Ruined,"

"She's Alright,"

 そして"Sad Sad Day."

の様なカットを含む1セッションを録音した。






☆Muddy Waters

"Mad Love (I Want You to Love Me)" 1953♪










過度の飲酒や理由によって、または

あまりにも多くのサイドギグを演奏の

いずれかに起因する。

 
- しかし、彼はバンドとの約束を破ったために、

その年の末までに解雇された。









ここ数年の間、ホートンは

シカゴ・ブルーズ・アーティストの

例えば

Johnny Shines, Jimmy Rogers,





(Jimmy Rogers)





そしてOtis Rushたちと

シカゴ・ブルース・クラブと

レコーディング・スタジオで働いた。





 

彼は、1950年代を通して

Chess、CobraとStatesで録音した。






(Joe Hill Louisー The Be-bop Boy)


☆Joe Hill Lewis - Back Slide Boogie♪






1954年、彼は合衆国のひとりのリーダーとして

比類なきシングルを制作した。








1956年チェスレコードより

Jimmy Rogersの"Walking By Myself"での

ホートンのソロは、


☆Jimmy Rogersー"Walking by Myself"♪







1950年代のシカゴ・ブルーズの、

そして彼のキャリアの最高の時のヒトツになると

多く考えられている。






☆Big Walter Horton - Have A Good Time ♪









ホートンは1960年代シカゴの

ブルーズ・シーンで活躍して、

その時代、ブルーズ音楽は白人の観衆と共に

人気を博した。





☆Arbee Stidhamの「When I Find My Baby」♪








1960年代初期から以降、彼はEddie Taylor,

Johnny Shines, Johnny Young,





(Johnny Young)





Sunnyland Slim,
 Willie Dixon





(Sunnyland Slim)




 そして多くの人たちと

サイドマンとしてしばしば出演し、録音した。







(「Southern Comfort」(Sire 97011)1965)






通常バッキング音楽家として、

彼は広範囲にツアーをした。



そして、1970年代には、

彼は米国とヨーロッパでの

ブルーズ&フォーク・フェスティバルで、



しばしばウィリー・ディクソンの

Chicago Blues All-Starsとともに演奏した。





(Chicago Blues All-Stars)






彼はまた例えばFleetwood Macや





(Fleetwood Mac)






Johnny Winter
の様な





(Johnny Winter)





ブルーズやロック・スターたちの

録音のゲストとして出演した。







1968年10月に、イギリス・ツアー中に

彼はSouthern Comfortを録音した。


それは前者Savoy Brownと将来的に

Mighty BabyのギターリストMartin Stone

と一緒だった。





(Mighty Baby)





1970年代後期に、彼は

Homesick James Williamson, Guido Sinclair,





(Homesick James Williamson)






(Guido Sinclair)





 Eddie Taylor, Richard Molina,

Bradley Pierce Smith


そしてPaul Nebenzahl





(Paul Nebenzahl)





と全米をツアーして、

National Public Radio放送に出演した。







彼自身の仕事で最高の編集アルバムの2曲は、

 Mouth-Harp MaestroとFine Cutsだ。






(Mouth-Harp Maestro







(Fine Cuts)






また注目すべき

"Big Walter Horton with Carey Bell"

のアルバムが1972年に

アリゲーターレコードより

リリースされた。





("Big Walter Horton with Carey Bell")









彼はフェステバル巡業の大黒柱になって、

しばしばChicago's Maxwell Streetの

屋外マーケットで演奏した。





1977年 Johnny Winterプロデュースによる

Muddy Watersのアルバム I'm Readyに

参加して、


同時期 Blind Pig Records用にいくつかの

録音をした。








ホートンはJohn Lee Hooker

に同行して




1980年の映画 The Blues Brothersの

Maxwell Streetの場面に出演した。









1980年、彼は最後の録音をした。






1981年ホートンはシカゴで

心臓麻痺により亡くなった。


64歳の生涯だった。




彼の亡骸はイリノイ州アルシップの

Restvale Cemeteryに埋葬された。











理解ある白人プレイヤー達の

サポートを受けて、



いくつかのアルバム制作や、

ツアーをこなしていながら、



最後までマックスウェル・ストリートの

片隅で演奏を続けていたという。






彼のハーモニカのスタイルは、

Carrie Bell~Billy Branch

へと受け継がれ、





(Carrie Bell)







(Billy Branch)





今でも多くのハーピストに

影響を与え続けている。




あの、Sugar Blueでさえ、




(Sugar Blue)





影響を受けたハーピストの筆頭に

ホートンの名前を挙げているほどだ。





1982年、彼は死後

ブルーズ栄誉の殿堂入りを果した。





           (ウィキペディアより抜粋)



――――――――――――――――――――――――

◆編集後記はこちら
________________________