ザ・コミュニケーション”達人への道”

コミュニケーションについて大切なコト。それはまず相手の方に心から関心を持って共感するコトです。これからご紹介するユニークな人物を、読んで、観て、聞いて、味わって見ては如何でしょうか。彼らの生き様がアナタの人生において素敵なスパイスになりますように。

☆ちょっとアナタ
お知らせします。
今回ご紹介する
ブルーズマンは
引き続き

サム・チャットモンです。




60年代と70年代を通して、

彼は、アメリカの全域で
クラブとブルーズと

フォーク・フェスティバルで
プレイするだけでなく、

いろいろなレーベル用に
録音をしました。

彼は1983年の彼の死まで
活発なパフォーマーであり、

録音するアーティストの
ひとりだったのでした。

◆ブルーズ・ロードを駆け続けて♪
現在公開中!
どうぞご覧下さい!
 

テーマ:
<<40年代前半にツアーを止めて>>






彼は1897~1899年の1月10日に

ジャクソン近郊の

John Gettisのプランテーションで

生まれ.





(ジャクソン近郊のJohn Gettisの
プランテーションで生まれ)






「彼の父親は元奴隷で

フィドル奏者の

Henderson Chatmonで、



(Henderson Chatmon)




母親もシンガーで

ギターリスト。」






その家族と言うのも

音楽的才能があるコトで

ミシシッピーでは有名で・・・。




(その家族と言うのも音楽的才能があるコトで
ミシシッピーでは有名で・・・。)






彼も6歳の頃に

ギターに興味を持ち、


家族が畑仕事をしている時を

見計らって


彼なりの練習を

していたのでした。






「いよいよ彼も

活躍の日がやって来て、



バラード、ラグタイム、

スピリチュアル、



人気のあるTin Pan Alley

(ポピュラー音楽関係業者)の曲


そして

カントリー・ダンス・ミュージックを


家族バンドの一員として

演奏したのです。」





(家族バンドの一員として演奏したのです。)






時は1920年代のアメリカ。




チャットモン兄弟は

ストリング・バンドを組んで、


1920年代羽振りが良かった

白人客のために



レギュラーで

ブルーズとワルツを

プレイするために

熱心に活躍。









「彼もギターに加えて

バンジョー、マンドリン

そして

ハーモニカなどの

色々な楽器のプレイに飽き足らず、



小遣いとチップのために

ミシシッピー中の


街角で演奏したのでした。」





(小遣いとチップのためにミシシッピー中の
街角で演奏したのでした。)







1930年に彼の兄弟は

ギターリストのWalter Vinson

と一緒に

”Mississippi Sheiks”として

デビューして、



(”Mississippi Sheiks”)




そして彼も時々彼らと一緒に

プレイしたのです。








「そのSheiksも

1935年に解散になり、


彼は30年代を通して

南部中の色々な

ミストラスやメディスンショーで

プレイしました。」









時は1940年代。



ビッグバンド・ジャズと

ブルースを融合した



ジャンプ・ブルースも

流行した時代。




 (Louis Jordan”Caldonia ”)



☆Caldonia / Louis Jordan♪







「彼は40年代前半に

ツアーを止めて



その間は録音もせず、

ミシシッピー州の

ホーランデールへ引越して、




(ホーランデールへ引越して)




周囲のプランテーションで

働いたのでした。」










<<サム・チャットモン3!>>



今回ご紹介するブルーズマンは

引き続きサム・チャットモンです。




(今回ご紹介するブルーズマンは
引き続きサム・チャットモンです。)





彼は20年の間

音楽から基本的に退いて、


プランテーションの仕事に

従事したそうですが・・・。






「ハイ」






50年代後半に

ブルーズ・リバイバルが

到来します。





「 O H ! 」

「過去ご紹介の

ブルーズ・マンたちも

これで復活しましたネ!」







そうですね。


彼は1960年に

Ken Swerilasにより

再発見されて、


復帰する様に

説得されたそうです。






「 O H ! 」


「約20年間、業界を離れて

年齢も当時60歳を超えていますが、

彼の意志はどうだったのでしょうか?」








そうですね。


詳しい経緯は分かりませんが

彼の立場が、


無傷の

彼の音楽の才能と一緒に


生き残った家族の

ただ一人のメンバーであること、


それが分かったのだそうです。





(生き残った家族のただ一人のメンバーであること、
それが分かったのだそうです。)






「つまりは

アメリカン・ブルーズの

”歴史的な生き証人”

と、言うコトでしょうか?」








そうですね。


米国自体、

歴史が比較的浅い国ですので

ここでこの素晴らしい”生き証人”を

埋もれさせるには

余りにも忍びないですし・・・。






「そうですね」





それに

ブームとは言え、


新たなマーケットとしての

白人層が

自国の歴史の”確証”

みたいなモノを



ブルーズに

求めていたのではないでしょうか?





(新たなマーケットとしての白人層が
自国の歴史の”確証”みたいなモノを
ブルーズに求めていたのではないでしょうか?)






「なるほど」


「それで彼も自己完結に

終止符を打って・・・。」








その辺の彼の心情は

よくは分かりかねますが、



彼はフォーク・ブルース・

アーティストとして



キャリアの新しい章を

開始したのでした。






「遂に

彼はリブースト(再起動)

したのですネ!」







そうですね。


それから彼は

1960年代と1970年代の間に

広範囲にツアーを組んだそうです。










「 O H ! 」






彼は再び

レコーディングを行い、


パフォーマンスを

披露し始めた時に、



現代のブルーズの

指導者として


認められるために

生き残った

と言われています。






「 O H ! 」


「彼にしてみれば、

復帰して、

イキナリ重責を負わされている

印象がありますが・・・。」







そうですね。


でも、

彼は父親が奴隷時代からの

パフォーマーの家系ですから・・・。





「 O H ! 」


「そうでした。」







その様なコトは

お首にも出さずに、


新世代熱狂的ファンを

楽しませるために・・・。






「 O H ! 」







エンターテインメント性のある

皆がよく知っている


他人のヒット曲を

カバーする以外にも。





「 O H ! 」





いわゆる

ホウカム(猥褻でユーモラス)

ですネ!





「アッ!それって

ボーカーターの受け売りですね!」





(「アッ!それってボーカーターの
受け売りですね!」)





そうです!


ずるい両義語

(二つのうち一つはしばしば

性的に下品な両義を持つ言葉)

と呼ばれていて、



彼はそれによって

際どさを強調した

と言われています。






「ウ~ン」

「時代は変われど

ネタ振りは元のままですか?」







そうなりますと

売れない一発屋のお話しとも

取れますが、



彼もボーの様に


初期のArhoolieの

アンソロジー


”I Have to Paint My Face”の

タイトルトラックのような曲で




(”I Have to Paint My Face”)





”よりシリアスな面”

を見せたのでした。






「 O H ! 」





その中でも

やはり観衆を楽しませる

コトの大切さを幼い頃から

理解している彼ですから





「ハイ」





彼のレパートリー以外にも

‘I Get The Blues When It Rains’

などの

彼の青春期のミストラスと

ポピュラーソングも

プレイしたそうです。






「 O H ! 」



「それは

新しい世代に関係なく、


ブルーズの関心の薄い

彼の世代の観衆も

幅広く関心を


示してくれそうですネ!」







そうですね。


さすが

チャットモン・ファミリーですネ!






それから彼は70年代には、

Smithsonian Folklife Festival

in Washington, D.C. in 1972,




(Smithsonian Folklife Festival in Washington, D.C. )






Mariposa Folk Festival

in Toronto in 1974,



(Mariposa Folk Festival in Toronto)




そして


New Orleans Jazz &

Heritage Festival in 1976




(New Orleans Jazz & Heritage Festival in 1976)





などの


最大で最も有名な

フォークフェスティバルで

沢山の演奏をしました。







「 O H ! 」

「生きる

ブルーズ・レジェンド(伝説)

降臨と言うトコロでしょうか?」








そうですね。



そして彼は1983年2月2日に

亡くなるまで

パフォーマンスを

やり続けたそうです。







「 O H ! 」


「そうですか」



「84歳。命尽きるまで

再復帰からの約24年間ですね。」







そうですね。





「彼は”歴史の生き証人”として

そして

プロのエンターテナーとして

ブルーズ・ロードを

駆け続けたのでした。」












☆Sam Chatmon:
Cold Blooded Murderer (1978)


☆Sam Chatmon:
Make Me A Pallet On the Floor (1978) ♪


☆Sam Chatmon: The Last Time (1978)♪

☆Sam Chatmon: Bumblebee Blues (1978) ♪

☆Sam Chatmon: Trouble In Mind (1978) ♪










☆サム・チャットモン

Sam Chatmon



(1897~9年1月10日~1983年2月2日)




デルタブルーズ・ギタリストで

シンガー。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
60年代と70年代を通して、

彼は、

アメリカの全域で

クラブとブルーズと

フォーク・フェスティバルで

プレイするだけでなく、



いろいろなレーベル用に

録音をした。




彼は1983年の彼の死まで

活発なパフォーマーであり、

録音するアーティストのひとりだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・








< 人 生 と 経 歴 >




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
次の20年の間、サムは

音楽から基本的に退いて

プランテーションに従事した。




ブルーズ・リバイバルが

50年代後半に到来したとき


彼はジャンルの甦る人気を

なんとか利用することができた。



1960年に、

彼はArhoolieとの契約に







サインした、

そして、

彼はレーベルのために

いくつかの曲を録音した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼はKen Swerilasにより

1960年の再発見された。


そして

Kenは再びパフォーマンスする様

彼を説得したのだった。



彼は主にそれから

フォーク・ブルーズ・

アーティストとして

知られるようになった。



彼はArhoolie labelや

それ以降、他と録音をした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ブルーズに対する白人たちの関心が

60sに刺激されたとき、

サムは無傷の彼の音楽の才能と一緒に

生き残った家族の

ただ一人のメンバーであることが

わかった。



そして、彼は1983年に亡くなるまで

新しい観衆のために

パフォーマンスを披露するために

ほぼ20年の音楽の引退から

出てきたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・








彼は1960年に再発見されて、

フォーク・ブルース・

アーティストとして

キャリアの新しい章を始めた。



同年、彼は

Arhoolie record label用に

録音した。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
チャットモンの妻は

Elma Lue Chatmonだった。


彼らの息子は後に

Singing’ Samとして

知られる様になった。



そしてElmore James



(Elmore James)




とベース・ギターリストとして

プレイした。


ギターに加えて、(Singing’)Samは、

バンジョー、ベース、マンドリン

そして

ハーモニカを演奏した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





彼は、

1960年代と1970年代の間に

広範囲にツアーを組んだ。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
莫大なチャットモン・ファミリーの

成果は、有名なMississippi Sheiksの



(Mississippi Sheiks)





Lonnieだけではなくて、

多産なBo Carter

数人の他のブルーズをプレイしている

兄弟たちも含まれていた。




サム・チャットモンは

60年代に

再びレコーディングを行い、


パフォーマンスを

披露し始めた時に



現代のブルーズの指導者として

認められるために

生き残ったのだ。






サムは

新世代熱狂的ファンを

楽しませるために、


ずるい両義語

(二つのうち一つはしばしば

性的に下品な両義を持つ言葉)の

ブルーズの兄弟Boの伝統を続けて

演奏をした。








だが、彼もまた

初期のArhoolieのアンソロジー

”I Have to Paint My Face”の




(”I Have to Paint My Face”)




タイトルトラックのような曲で

よりシリアスな面を見せた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
むしろ作者不明であるけれども、

強い、いくらか柔軟性がない

ヴォーカリストと能弁者は採集者を

パターン化する。


そして、

彼の後のキャリアでの

Chatmonは

大部分はブルーズをプレイする。


そして、

彼が録音された他人のヒット曲を

カバーしていなかったとき、

際どさを強調したのだ。






おそらく

彼のレパートリーのサイド以上に

興味深いのは


‘I Get The Blues When It Rains’

や‘Turnip Greens’などの



彼の青春期のミストラスと

ポピュラーソングだった。




彼は若干の最もらしさで

”Cross Cut Saw”を作曲したと

主張した。




その曲は

2度目はTommy McClennanにより




(Tommy McClennan)




☆'Cross Cut Saw Blues'
 TOMMY McCLENNAN (1941)
 Delta Blues Guitar Legend♪






後にAlbert Kingによって

有名になった。




(Albert King ”Crosscut Saw”)



☆Albert King - Crosscut Saw♪

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・







1970年、カリフォルニアに

いる間に、集い

Sweet's Mill Music Campで、




(Sweet's Mill Music Camp)




Sue Draheim, Kenny Hall,



(Sue Draheim)




( Kenny Hall




Ed Littlefield, Lou Curtiss,




(Ed Littlefield)




Kathy Hall, Will Scarlett



(Will Scarlett)




そして他と幾らかの

録音をした。


そして

彼が"The California Sheiks"と呼んだ

グループを組んだ。






彼はSmithsonian Folklife Festival

in Washington, D.C. in 1972,




(Smithsonian Folklife Festival
in Washington, D.C.)





Mariposa Folk Festival in Toronto in 1974,




(Mariposa Folk Festival in Toronto)





そして

New Orleans Jazz &

Heritage Festival in 1976





(New Orleans Jazz &
 Heritage Festival in 1976)




などの最大で最も有名な

フォークフェスティバルで

沢山の演奏をした。






チャットモンはインタビューの間、

ギターの下を這いながら


3歳でギターを始めたと

説明した。





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サムは1970年代のBlues Caravanで

Fingers Taylorと一緒の

パフォーマンスのために

2、3のブルーズマンたちの一人と

プレイした。


そして Jimmy Buffetと

ツアーをした。




(Jimmy Buffet)





サム・チャットモンは

1983年2月2日に

彼が亡くなるまで

パフォーマンスをやり続けた。


彼はミシシッピー州

ホーランデールに埋葬された。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・







"Sitting on top of the World”

の墓碑銘による

チャットモンの墓は






Mt. Zion Memorial Fundを通じて

Bonnie Raittにより寄贈され、




(Bonnie Raitt)




Hollandale Municipal Buildingの

大きな墓地で1998年5月14日

ミシシッピー州ホーランデールの

Sanders Memorial Cemeteryに設置された。




(Sanders Memorial Cemetery)




そして市長と

ホーランデールの市議会議員のメンバー

並びに100名を超す参列者により

弔(とむら)われた。


                   (ウィキペディアより抜粋)

―――――――――――――――――――――――

◆編集後記はこちら
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