ザ・コミュニケーション”達人への道”

”幸せな人生”とは”豊かな人間関係”にあります。
コミュニケーションを豊かにして、より多くの素敵なみなさんと
結び合って、素晴らしい人生を私と共にクリエイトしてゆきませんか!

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テーマ:
<<音楽は場所を選ぶ!>>


音楽はその時代を映(うつ)す

ある意味、カガミのような

存在なのかもしれません。


「確かに今までの

ブルーズ・マンの生き方に

影響を与えていますし・・・。」




特に*世界恐慌(1929年)の影響は

ミュージシャンたちの今後に

かなりの影響を与えましたからね。




*世界恐慌

1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で

株価が大暴落したことを端緒として世界的な規模で

各国の経済に波及した金融恐慌、および経済後退が起きた。




「それでも根強いファンの支持があって

研究家が探してくれたり

その復活劇もワクワクモノでした。」(笑)



不況下ですからレコードの製作も

数年間中止されたりしたそうです。



「それでも音楽を聴きたいファンは

いたのではないでしょうか?」




 
そうです。ブギ・ウギなどは

ピアノ1台あれば狭い部屋での

パーティーにはぴったりの

音楽だったので。


*ハウス・レント・パーティー

などでもよく演奏されたそうです。


*ハウス・レント・パーティー

高い家賃を補うための副収入を得るため

自宅を使って、お金集めのための

ダンス・パーティーを開催した。





<<カウ・カウ・ ダヴェンポート登場!>>



今日ご紹介するブルーズ・マンは

カウ・カウ・ ダヴェンポートです。



(今日ご紹介するブルーズ・マンは
カウ・カウ・ ダヴェンポートです。)



個人的ヒットは

”カウ・カウ・ブルーズ”ですが、


彼が直接書いた曲でも

ないにもかかわらず

そう思われたり、


よくあるカヴァー曲で

死後脚光をあびたり


「後世のミュージシャンたちに

インスピレーションを与えたワケですね。

そう考えますと

影響力のあるカタだったのですね。」





☆CBS HOF 2009 Pt 1 Cow Cow Davenport♪


☆COW COW DAVENPORT - Cow Cow Blues  ♪



☆カウ・カウ・ ダヴェンポート

チャールズ・エドワード"カウ・カウ"・ ダヴェンポート

 (1894年4月23日- 1955年12月3日)

米国アラバマ州アニストン生れ。


ブギ・ウギ ・ピアノ・プレイヤー 、オルガン、シンガー。


アーノルドキャプリンのライナーノートによると

彼は12歳にピアノを始めた。

だが家族の反対もあり神学校に送られ、

そこでラグタイムを演奏した。


1920年彼のキャリアはバンホーフの移動遊園地で

行われた医学ショーに始まった。



最初の名声はブルーズ・ミュージシャンの

ドラ・カーとアイビースミスの伴奏者としてだった。



彼はヴォーカリオン・レコードのアーティスト

としてだけではなくタレント・スカウトとしても

活躍した。



1930年代初頭に脳血管障害に苦しみ。

手の動きを失ってしまった。



1938年ジャス・ピアニストのアート・ホーデスに

見つけられたときには彼は皿洗いをしていた。



ホーデスは彼のリハビリと新しいレコーディング契約

を見つける支援をした。



彼を有名にした曲は1928年にヒットした

”カウ・カウ・ブルーズ”だった。



1953年”カウ・カウ・ブルーズ”アフメット・アーティガンに

影響を与えた。アーティガンは" メス・アラウンド”

レイ・チャールズの為に書いたのだった。



それはチャールズが1950年代を通じてアトランティック・

レコードに契約する為で、" ナット"キング"コール風の

スタイルから離れる第一歩だった。




”カウ・カウ・ブギー(1943年)”はおそらく

彼に因んで命名されたが、彼に書いたものではなかった。

それはベニー・カーター 、 ジーン・デ・ポール、ドン・レイ

によるものだった。



その後ビッグバンド / ブギウギの洪水が有名な

(ジョニー・マーサーの”アイム・アン・オールド・

カウハンド”に代表される)ウエスタン・ソング・ブーム

と一緒に流行した。



ダベンポートは”ママ・ドント・アラウ・イット”

作曲したと主張していた。



またルイ・アームストロングのヒット曲

”アイル・ビー・グラッド・フェン・ユア・デッド”

は彼によって書かれたものといった。



だがその権利を売ったためにクレジットは他人名義に

なった。


1955年動脈硬化により死去。アラバマミュージックホールの

殿堂入り。


クリップルクラレンス・ロフトンに多く影響を与えた。



             (ウィキペディアより抜粋)

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◆編集後記はこちら
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テーマ:
<<とんでもない自信家あらわる!>>


”私はジャズの創始者です。”


このような名刺を持ち歩いているヒトが

かつていらっしゃいました。



「かなりの自信家とお見受けしました。」



そうです。

かなりの自信家であり、虚言者。



天才作曲家であり、遊郭(ゆうかく)のピアノ弾き。



人生のばくち打ちであり、チャレンジャー。


名声を欲しいままにしたと思えば、


時代の流れに抗(あら)えず

放浪者となる。



「なんとも山あり谷ありの人生ですね。」


「まるで映画のようです。」




今日ご紹介する

これはジャズ・マンですが


まさに波乱の人生ですよ。


羽振りの良い時はダイヤの指輪に

数え切れないスーツ。ドル紙幣の束。

前歯にダイヤをはめ込んでいたことも

あったそうです。


かと思うと地方の劇場の

ピアノを弾いていたり

喜劇バンドのツアーをするコトも

あったそうです。






「彼から何を学べば良いのでしょうか?」




彼から何を学んだか?

そのひとつが

やはり”謙虚さ”ではないか?


とそう思います。



これは個性といえばヒビキが

良いですが、相手を罵倒(ばとう)して

傷つけてはいけません。


彼の口の悪さにバンドのメンバーが

公演を降りたコトもあったそうです。


また落ち目になったトキ

時代に受け入れてもらえてない

そのアセリのためでしょうか?


新聞やジャズ誌に

誇大妄想ともいえる抗議文を

投書したコトもあったそうです。



「なんでしょうか?

身につまされるお話しですね。」




<<ジェリー・ロール・モートン登場!>>


今日ご紹介するブルーズ・マンは

ジェリー・ロール・モートンです。


(今日ご紹介するブルーズ・マンは
ジェリー・ロール・モートンです。




ラグタイムからジャズへの

変革期にスイングを取り入れた

ひとりと言われています。


確かにひとクセも

ふたクセもある人柄では

ありますが、


そんな個性豊かな?

彼がいたこらこそ

現在私たちはジャズといわれる



音楽のジャンルの曲を

味わうコトが出来る

というのは

誉(ほ)め過ぎでしょうか?


彼の曲を通して

ひとりのジャズ・マンの

人生を感じていただければ

と思います。



☆Ferdinand "Jelly Roll" Morton - 1927 - Jungle Blues♪

☆Jelly Roll Morton "Sidewalk Blues"  ♪
      


☆ジェリー・ロール・モートン

フェルディナンド "ジェリー・ロール" モートン

 (1890年9月20日-1941年7月10日)

米国ルイジアナ州ニューオーリンズ生れ。


ピアニスト、バンドリーダー、作曲家。


ジャズにおける最初の真の作曲家であるという人もいる。

モートンは派手な性格で、自慢話で話題を呼ぶのが好きだった。


彼は自分の名刺にジャズとスウィングの創始者であるとしていた。


彼は、トニー・ジャクソンと並び、20世紀初期の

ストーリーヴィル地区でとりわけ名の知れた

ピアニストであった。




彼は14歳のとき、母親の死後、売春小屋のピアニスト

として仕事始めた。


彼が17歳のころには、彼自身かなりの腕前になり、

ラグタイムの機械的なリズムに、ジャズのスイング感や

ビートを加えたユニークなピアニストとなっていた。



1903年~1904年彼は初めてミシシッピー、アラバマ、

フロリダ、ケンタッキー、イリノイを旅して回る。


1915年自作の「ジェリー・ロール・ブルース」を初出版。


1917年ロスアンゼルで、ナイトクラブに出演、

楽団を編成、ナイトクラブを経営するまでになる。

また、楽譜の出版業を始め、成功をおさめる。


1922年、彼はケンタッキー、ミズーリを旅し、

フェイト・マラブルのリバボートの楽団に入団。


1923年シカゴに引っ越す。

白人黒人編成による初めての吹込みの

ニューオリンズ・リズム・キングスとの共演

「ウォルバリン・ブルース」をレコーディング。



1926年に、モートンはビクターでレコーディングする契約を得る。



ジェリー・ロール・モートンと彼のレッド・ホット・ペッパーズ

 によるこれらの録音は、1920年代のジャズの古典として

関心を持たれている。



1928年彼はニューヨーク市に引っ越す。

ニューヨークでは、モートンは彼のスタイルの

ジャズを演奏したいというミュージシャンを

見つけるのに苦労した。



世界大恐慌とレコード産業が破綻してゆく中で、

1931年のモートンのビクターでの録音契約は

更新されなかった。



メイベル・バードランドと結婚。



楽団を編成してニューヨークを発ったが、

経営はうまくいかず、まもなく楽団は解散した。



1934年には少しの間ラジオ・ショーを受け持ち、

その後、喜劇のバンドでツアーするまでに成り下がった。


彼はワシントンD.C.の店をたたんだ。

そこは民俗学者アラン・ローマックスがモートンが

バーでピアノ・ソロを弾くのをアフリカ系アメリカ人の

隣人と初めて聴いたところである。


1938年5月、アラン・ローマックスは米国議会図書館用に

モートンとのインタビューを録音することを始めた。

彼の演奏とニューオリンズ回顧録をSP48枚に吹き込む。



モートンは、取材の録音していた時期に、

彼が演奏をしているワシントンD.C.のバーで喧嘩が起こり、

そのときにナイフによる深刻な傷を負った。



彼の怪我は完全には回復せず、それにより、

彼はしばしば病気にかかったりすぐに息切れしたり

するようになった。



1939年再びニューヨークへ行き、レコード会社に

吹き込みをしたがあまり反響を呼ばなかった。


1940年、モートンと彼の妻はロスアンゼルスへ行った。

それから心臓病と喘息で床につき、寝たり起きたりの生活が続く。


1941年7月10日に死去。

             (ウィキペディアより抜粋)

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◆編集後記はこちら
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テーマ:
<<ナゾはデータの果てに>>


ナゾの人物って興味わきませんか?



「ナゾの人物ですか?」



「それはもう・・・。」(笑)



「でも、どのアタリがナゾなのでしょうか?」




今回ご紹介するブルーズ・マンですが

実は明らかにデータ不足でした。



「といいますと・・。」



ミューンジシャンのバイオグラフィーを

探るにはレコードが一番の資料となりますが、



「確かに。そうですね。」




しかし彼の場合は公式には4曲らしいのですが、


聞くことのできるモノは2曲に

止まっています。


(聞くことのできるモノは2曲に止まっています。)



「ウ~ン。残念ですね。」



レコードですら

このような情況ですから


彼の人となりがイメージできるモノが

まるで入手できませんでした。



「そうですか。」



ただこれからもっとデータが

発掘されてくるでしょうから

それを期待したいと

思います。





<<ウィリー・ブラウン登場!>>


今日ご紹介するブルーズ・マンは

ウィリー・ブラウンです。



(今日ご紹介するブルーズ・マンはウィリー・ブラウンです。)

「写真解説:向かって左がロバート・ジョンソン、
右がウィリーブラウンらしい?」




曲を聴いてみてわかりますが、


シャガレタ声


単調な繰り返しによるリズム



この泥臭さと乾いた空気



ブルーズの匂いでしょうか?。




不思議と聞くほどに

引きこまれてゆきます。


やはり彼は

ただモノではありません。




☆Willie Brown - M & O Blues - Paramount 13090, Champion 50023 blues♪

☆Willie Brown - Future Blues - Champion 50023B  ♪




☆ウィリー・ブラウン

Willie Lee Brown(1900年8月6日- 1952年12月30日)


 アメリカ合衆国    ミシシッピ州クラークスデール生れ。


ギターリスト、シンガー。


彼はチャリーパットンやロバート・ジョンスンなどの

著名人たちと演奏を共にした。

彼は自分からリーダー役でなく、他のミュージシャンの

セカンドを好んだ。



ロバート・ジョンソンが電話をかけた人物については

知られていない。



”走って、走って、ウイリーブラウンに伝えて”

(”クロスロード・ブルーズ”の予言より)

ジョンソンを指名したヒトは誰でも

彼の死のイベントで知らされなくてはならない。



曲の別テイクでジョンソンは”私のフレンドボーイ

”ウイリーブラウン”に伝えて”と新しい歌詞を入れた。




1930年パナマウントのパットンとのセッションで

”MアンドOブルーズ”、”フューチャーブルーズ”

を聞くことが出来る。



後の伝記では明らかである。

ウィリー・ブラウンはパナマウントのアーティスト、

1929年にミシシッピー州ロビンソンに住み、


1935年にレイク・コモラントに引っ越す。


時よりチャーリーパットンと継続的にサンハウスと

彼が死を迎えるまで演奏した。


1952年心臓病により死去。




               (ウィキペディアより抜粋)


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◆編集後記はこちら
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