◆そのスタイル(クリーンヘッド?)。妥協なし!♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。



<<時代は移りゆく・・・。 >>



町工場の多くある場所を歩いていますと、

外にかけてある看板とは違うモノを



作っていたりするコトが

多くあります。





「それはどう言うコトでしょうか?」





企業と言うのは

お客さんに新たな提案をし続けなくては

ならないと思います。





「なるほど。」





それでその提案が増えるほど

その商品に新たな価値を加える必要が

あるかと思います。





(それでその提案が増えるほど
その商品に新たな価値を加える必要が
あるかと思います。)






「それはそうですネ!」







そのためには、その価値に見合うだけの

変化が・・・。


それはその会社だけではなく、



その下請けである町工場にも

必要とされてゆくのではないでしょうか?






「なるほど。」




「アッ!それで外の看板の件ですね。」






そうです。



新たな価値を生み出す為に

看板(今まで扱っていたモノ)とは

違うモノを創る必要があったのです。





「なるほど」





そしてあらゆる要望に応えるだけの・・・。




それは今までの経験からくる

モノ造りに対する自信


それががある様に思えます。






「確かに・・・。」



「戦後の復興からこの平成まで

この日本の繁栄を裏から支えてこられた

熱いエネルギーを感じますネ!」








(「戦後の復興からこの平成まで
この日本の繁栄を裏から支えてこられた
熱いエネルギーを感じますネ!」)








さて、お話しは変わって、

ブルーズ・マンの彼ですが、




今まで付き合いのあった

既存のバンドに背を向けて、


あえて自らのバンドを立ち上げた迄は

良かったのですが・・・。





「時代が変わってしまったのですネ!」






そうです。




今まで彼を培(つちか)って

育てられたノウ・ハウを

ようやく自身のバンドに応用して




活躍を魅せようとした

その矢先でした。







「彼にしてみると、

さぞ、ショックだったのでは

ないでしょうか?」







そうですね。


レコード会社の方も

そのコトは分かっていたのでしょう。




彼はレコード会社を変えて

バックに当時の有名どころを揃えて

レコーディングするモノの・・・。







「それ程の成果はなかったのですネ!」






そうです。











「例え音楽的に

アウトスタンディング(比類なき)な才能を

バックに揃えていたとしても・・・。」







そうです。







その当時レコード会社の方も

売れ筋シンガーに


力(ちから)添えを

していたコトもありました。







「それは、レコード会社に限らず、

売れ筋の商品に注力するコトは

商売の王道かと思われますヨ!」








そうですね。


それでも彼はヒットを

出せなかった事実です。






「それは・・・。」


「彼のスタイルでしょうか?」








そうです。

1950年代前半には、

ジャンプやシャウト・スタイル

そしてかつての彼のブルーズは

既に時代遅れになったのです。






「そのコトを身を持って

知ってしまったのですネ!」







<<エディ・クリーンヘッド・ビンソン続く>>




今回ご紹介するブルーズ・マンは

引き続きエディ・クリーンヘッド・ビンソンです。




(今回ご紹介するブルーズ・マンは
引き続きエディ・クリーンヘッド・ビンソンです。






彼はそれからジャズに傾倒し始めました。





「いよいよ活動開始ですか?」





ハイ!



色々なバンドと一緒に組んで

活動を共にしたり

レコーディングもしたそうです。






「なるほど」






ジャズとブルーズとの

ハイブリッド(複合型)のアルバムの

録音にもチャレンジしたそうです。






「それは新旧の技をミックスした

ある意味画期的なアイデアですね。」







そこで、非常~に

興味深いコトがあります。







「それは何でしょう?」






それは1960年代後半ですが、

その頃はジャズに対して

理解の厳しい時代だった様です。





そんな中、


彼の歌うスタイルが

ジャンプ・ブルーズの

テキサス・スタイルだったそうです。






「それは画期的というか?

先祖返りではないでしょうか?」







(「それは画期的というか?
先祖返りではないでしょうか?」)






そうですね。





特にその頃の彼の曲には

性的に露骨な表現が多かったと聞きます。







「なるほど。それはある意味

スゴイ個性ではないかと・・・。」








そのためにラジオでの放送には

なかなか困難を極めたみたいですヨ!






「ラジオはあくまでも

公共性がありますので・・・。」





「その対象は、大人だけではなく

子供さんも耳にするワケですから・・・。」






「それは最もと言えば最もですね。」





「放送する側にしてみれば、

適切な判断ではないでしょうか。」








でも、そのお陰でしょうか?


彼は1970年代80年代を通じて

国際的な音楽祭などの

興行では人気があったそうです。






(彼は1970年代80年代を通じて
国際的な音楽祭などの
興行では人気があったそうです。)






「彼が桧舞台(ひのきぶたい)で

スポット・ライトを浴びるコトも、



そして舞台裏に去ってゆくのも、


つまりは彼の長年培(つちか)った

スタイルがあったカラだったワケですネ!」







それについては例の町工場の件も

同じかと思われますネ!





「長年培(つちか)ったモノが蓄積されて、

それがスタイルとなり・・・。」






それがやがて

”どんなモノでも創ります”と言う様な

自信となってゆきました。






「町工場とミュージシャン。

カタチは違えども、



その”根っこ”にあるモノは

同じなのですネ!」







「イヤ~ッ!逞(たく)しいです。」







音楽においても、



おそらくそれは・・・。




彼自身のライフ・スタイルにおいても



彼はスタイルを決して妥協しない


”メインストリーム(主流)”のブルーズマン




と考えられているそうです。







Eddie "Cleanhead" Vinson -
Just A Dream(Big Bill Broonzy) / Person To Person ♪



Eddie Cleanhead Vinson - Goodnight Baby Blues .1967 ♪


Eddie 'Cleanhead' Vinson & Roomful of Blues -
 Past sixty blues ♪



Cleanhead Blues - Eddie "Cleanhead" Vinson♪







☆エディ・クリーンヘッド・ビンソン EDDIE CLEANHEAD VINSON


本名:エディ・ビンソン



 (1917年12月18日- 1988年7月2日)


アメリカン・ジャンプ・ブルーズ、

ビーバップとR&Bアルト・サックス奏者、

そしてブルーズ・シャウター。






<略歴>


<兵役を終えて>



1947年1月に、エディー・ビンソンは

レコーディング・スタジオに戻ってきた。


だが、ラインナップが7ピース分減っていた。





セッションは、彼自身の名前の下で

彼の最大のヒットを生んだ。




それは彼のR&Bチャートでトップの

"Old Maid Boogie",





("Old Maid Boogie"





 そして彼のシグネチャー・ナンバー

"Kidney Stew Blues"





("Kidney Stew Blues")





になる曲であるコトを証明した。





"Cleanhead Blues,"

"Tune Up."での

若干の成功もあった。








1947年中頃に1つの

最後のビッグバンド・セッション、

 (“Gonna Send You Back Where I Got You From”)

があった。






 (“Gonna Send You Back Where I Got You From”)






しかしそれ以降のすべての記録は、

小さなジャンプ・バンド・ラインアップだった。






2回目のAFMストライキが迫ったので、

マーキュリーでのビンソンの滞在は

28日の最後の面まで、

1947年12月まで続いた。






“I Took The Front Door In”は

ビンソンのスタンダードな

ブルーズ・シャウトだった。





(“I Took The Front Door In”)





だが、“Shavetail”そして

“Friday Fish Fry”は

興味深いバップ影響された

インストゥルメンタルだ。







それがビンソンに彼最大のヒットを提供した

彼のブルース歌であったが、



彼のすばらしいジャジーな

アルト・サックスは、


ジャンプやリズムのシャウト・スタイル

そしてブルーズは時代遅れになった

かつての彼のキャリアを延長した。









1948年キングレコードへの録音をするが

会社側がセールスに熱心でないために

ビンソンはマーキュリーへ戻った。




ビンソンはキングレコード契約は

1952年までだった。

彼は1949年まで録音を再開しなかった。







キングの方は私がこれまでに聞いた

エディ・ビンソンの(ガスト2LPセットで)

ファースト・レコードだった。


そして彼らは非常に印象的でもあった。







しかし、ディスプレイ(バックバンドには

“Lockjaw” DavisとBuddy Tateがいた。)上





(“Lockjaw” Davis)






(Buddy Tate)





比類なき音楽的才能にもかかわらず

双方ともヒットはしなかった。








これは多分キング・レコードの親玉

Syd Nathanが、




(Syd Nathan)





当時の2大R&BスターのRoy Brownと





(Roy Brown)





Wynonie Harrisに注力していただけではなく、





(Wynonie Harris)






50年代位前半には

ビンソンのジャズ・ジャンプ・ブルーズは

流行りのスタイルではなかったと言う

事実にもよるだろう。










このLP “Home Boy”には

3曲キングからのモノで

クーティ・ウィリアムス・バンド時代から



ビンソンと一緒のLee Pope による

見事なテナー・サックス・ブレークの

ローピング・ブルーズ・シャッフルだ。







“Eddie’s Bounce”は別のバップ風の

インストゥルメンタルでそして最も尽力した、


“Time After Time”は

ビンソンによるバラード曲で、


それは Milt Larkin bandの主演のバラード歌手

としての彼の時代に私たちを連れ戻す。






ビンソンのジャズへの傾倒は1952年~1953年に

高められた。

その時彼のバンドには若きJohn Coltraneがいた。






(John Coltrane)






1950年代の中期に、一時

クーティ・ウィリアムスの

小編成のバンドに在籍もしたが、





(クーティ・ウィリアムス)






1957年からは Count Basieのオーケストラと

ともにツアーと短い録音をした。





(Count Basie)





この時オーケストラから選抜した

小編成のメンバーで キンング傘下の

Bethlehem Recordsに録音( Back In Town)をした。








その頃までには、ジャズの歴史家によると、

ビンソンは彼の「ファルセットの声」の

多くを失っていた。



彼の録音は「ザラついた」傾向があった。

そして、彼は「しわがれ声に」聞こえたそうだ。








1960年代初期に、ヴィンソンは

ロサンゼルスへ引っ越して、

Johnny Otis Revueで働き始めた。






(Johnny Otis)





1961年、Cannonball Adderleyに「再び」見出されて





(Cannonball Adderley)





the Adderley brothersとともに

Riverside Recordsに Back Door Bluesを録音。






(Adderley brothers)





1960年代後半、ジャズの理解が厳しい中で

Jay McShann
とツアーをした。





(Jay McShann)





ビンソンのキャリアは上昇した。




Cleanhead Blues LIVE - Eddie "Cleanhead" Vinson♪





今後20年間は、ビンソンを録音し続けた。





彼はEddie Vinsonと

ミューズ・レーベルの Roomful of Blues





(Roomful of Blues)





そして Live at Sandy'sを含む





(Live at Sandy's)





ジャズとブルーズのハイブリッド(複合型)の

アルバムをいくらかカットした。



彼の録音の多くはジャンプ・ブルーズ

テキサス・スタイルで歌った。






彼の性的に露骨な歌の多く

 "Oilman Blues,"

 "Some Women Do,"


そして"Ever-Ready Blues," は


ラジオで放送されるには

あまりにも卑猥だと考えられた。








ビンソンの歌の多くが

(その様な内容のために)

放送時間を取得するコトができなかったが、



彼は1970年代と1980年代を通じて

国際的な音楽祭の興行で人気があった。









1970年 Monterey Jazz Festivalへの





(Monterey Jazz Festival)






オーティスと出演は、

ビンソンのカムバックのための

ちょっとした拍車をかけた。







1970年代を通して彼はCount Basie,

Johnny Otis, Roomful of Blues、





(Roomful of Blues)





Arnett Cobb, そしてBuddy Tate





(Arnett Cobb)




のために注目を集めるブルーズと

ジャズ・セッションで活躍した。







彼はまた"Tune Up"と "Four"を

含む曲を着実に作曲をした。




だが、両曲ともMiles Davisの曲と間違えられた。






(Miles Davis)





ビンソンは彼の50年のキャリアの間。

広範囲に録音を行い、

ヨーロッパと米国で定期的に演奏した。








1988年カリフォルニア州ロスアンゼルスで

彼は化学療法中の心臓発作で亡くなった。








1988年7月2日にロサンゼルスで

彼は死の直前まで

米国での様々なジャズや

ブルースのフェスティバルに出演した。





ビンソンはバーニス・スプラッドレイと

結婚していて、3人の子供たちがいた。




彼はスタイルを決して妥協しない

”メインストリーム(主流)”のブルーズマン

と考えられている。



           (ウィキペディアより抜粋)



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