晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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3月24日(日)に京都の老舗お蕎麦屋さん「本家 尾張屋」で、
今では味わうことのできない、「砂場の蕎麦」の試食を楽しめる講座がありました。


晴耕雨読 -田野 登--砂場公園
写真図1:尾張屋

講座名は「蕎麦のソムリエ講座」といいます。
蕎麦専門のインターネットマガジン『蕎麦Web』が主催する、人気の高い蕎麦講座です。

その中で講演をしてきました。


晴耕雨読 -田野 登--講演
写真図2:講演の模様(撮影は『蕎麦Web』を主宰する片山虎之介氏)

タイトルは「絵と文字が語る「砂場」の世界ー大阪築城物語ー」でした。

前口上の一つに挙げましたのが、この石碑です。

大阪市西区の新町南公園のなにわ筋に面した、よい場所に建てられています。
江戸時代、京の島原、江戸の吉原と並び称せられた官許の遊郭のあったのは、大坂では新町です。


晴耕雨読 -田野 登--石碑
写真図3:石碑

その碑文には、次のように書かれています。(横書きに書き改めています。)

o天正11年(1583)9月、豊太閤秀吉公大阪築城を開始、浪速の町に数多、
膨大を極めし資材蓄積場設けらる。
ここ新町には砂の類置かれ、通称「砂場」と呼びて、人夫、工事関係者日夜雲集す。
人集まる所食を要す。
早くも翌天正12年、古文書「二千年袖鑒」に、麺類店「いずみや、津の国屋」など開業とある。
即ちこの地、大阪築城史跡にして、また、本邦麺類店発祥の地なり。
坂田孝造・識/昭和60年3月11日/大阪のそば店誕生四百年を祝う会

これが「大阪築城物語」の始まりなのです。

PowerPointは、今回60コマあまりを駆使しました。

図書館、博物館で、特別に許可をいただいた文書が含まれ、
当日は、写真撮影をご遠慮願いました。コンテンツは、以下のとおりです。

o 0 口上
o 1 地名「砂場」の場所
o 2 絵と文字が語る「砂場」
o 3 「砂場」記述の遡及年表
o 4 大阪築城言説「砂場物語」
5 まとめ


晴耕雨読 -田野 登--おとぎ品

写真図4:『絵本御伽品鏡』

享保15(1730)年板の『絵本御伽品鏡』、この図の左が「蕎麦切屋」です。
この狂歌を読むのには苦労しました。

五七五七七になかなかならない!??。

訳がわかれば何のこともありません。

当日は画像でアップしましたが、右頁に描かれている行燈には
「うんとん」とも書いてありました。
うどんも出していたのです。

暖簾には「いつミや」とあります。

ご存じ砂場には「和泉屋」と「津国屋」の二軒の蕎麦屋がありました。
その「和泉屋」でしょうが、この図の場所は砂場ではなさそうです。


晴耕雨読 -田野 登--すなば摂津
写真図5:『摂津名所図会』

おなじみの寛政10(1790)年刊行『摂津名所図会』の「砂場 いづみや」の店内の図です。

右端の植え込みには、山葵の化け物のような蘇鉄が植わってます。
「山葵」といえば、すりおろせば蕎麦の薬味となる品です。
『絵本御伽品鏡』の狂歌にも詠まれていました。
「蘇鉄」もさることながら、砂場といえば、軒下の庇を葺いてあるのは、
「蛎殻」ですよね。

火除けのために、蛎殻を葺いたと『摂津名所図会』には書いてありますが、
本当にそうなのでしょうか?

ボクは、それだけではないと考えています。これには、秘められた意味がありそうです。


晴耕雨読 -田野 登--2000年
写真図6:『二千年袖鑒』

さて、冒頭に挙げた新町南公園の石碑に挙げられている古文書「二千年袖鑒」とは、
この図を指します。
確か「天正十二年」は、太閤秀吉が大坂に築城した翌年です。
この珍書が「大阪築城物語」の素材なのです。
大阪では今ではなくなった「砂場」が江戸・東京には、たくさんの店舗を構えています。
江戸「砂場」のルーツを探るのも一興であったらしく、東京からのお客さんの中には、
「目から鱗」とまで言っていただけました。

大阪の人間の中にはアホなことを真剣に研究している者もいるといった
心意気を示したかったまでです。


さて、この「蕎麦のソムリエ講座」、とても好評だったため、
今後、東京などでの開催も予定しています。

まだ開催までには時間がありますので、その間に、さらに歴史資料の研究を進め、
「砂場」の姿を明らかにしたいと思います。

東京での講座が行われるときに、連絡がほしい方は、
『蕎麦Web』から「蕎麦のソムリエ講座」に申し込んでください。

『蕎麦Web』 http://sobaweb.com

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<第2回阪俗研セミナー開催します>
第1回阪俗研セミナーは、地域文化を調査するためのお地蔵さんの話をしました。第2回は、通天閣ビリケンさん人気の謎を解くべく、四天王寺で有名な「乳授けの布袋さん」についてお話ししようと思います。
ビリケンさんと布袋さんは、お姿はちょっと違うように見えますが、共通するところがあります。布袋さんのふくよかな、おなかを見たとき、どんなしぐさをしますか?ビリケンさんの場合、どうでしょう?足の裏をくすぐりますよね・・・。地蔵調査で得た民俗学的視点から調べてゆきますと、次々と共通点を発見します。私が代表を務めます大阪民俗学研究会(略称:阪俗研)では、大阪のさまざまな習俗の不思議を真剣に追究しています。
特に第2回のセミナーは、歴史学、民俗学、社会学といった枠では味わえない想像体験重視の楽しいセミナーとなるよう企画を練っています。興味のある方は、是非お申込みくださいますようお願いします。

阪俗研セミナー予定
日時:各月第4土曜午後を予定しています。
第2回:2013年4月27日:セミナー「ビリケン像人気の謎を解く布袋さん研究」pm6:30~8:00
第3回:2013年5月25日:マチ歩き(西区九条方面の予定)
会場:大阪府立江之子島文化芸術創造センター (明治の大阪府庁の場所)大阪市西区江之子島2丁目1番34号
アクセス:大阪市営地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車、8番出口から西へ約150m。
会費:各回1000円。
お申込は、電話(田野携帯:080-1418-7913)
もしくは、tano@folklore-osaka.org までご一報ください。

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 私は、24日(日)に京都の蕎麦屋の「本家 尾張屋」で講演をします。

演題は「絵と文字が語る「砂場」の世界」です。

副題は「大坂築城物語」です。

大阪市西区の新町南公園に「ここに砂場ありき」の石碑が立っているのをご存じですか?

太閤秀吉が大坂築城の時代、大坂の街まちは、活気にあふれ、この地は土砂が積まれていて

「砂場」と称され、そこに働いた人たちが腹を満たすのに蕎麦切りを食べたのが、

蕎麦の起源だと書かれています。

本当にそうなのでしょうか?1ヶ月ほど前に話を頼まれましたもので、いろんな文献に当たりました。


蕎麦屋の名前が書かれた文書

《『大坂新町細見図 澪標』宝暦7(1755)年版》。

これはすっかり虫が食っていました。

太閤築城の時代の大坂の光景が描かれた挿絵本。

《『絵本太閤記』八》。

これは大変おもしろいアングルの絵です。

石山合戦時代の大坂の絵地図。

晴耕雨読 -田野 登--石山
《写真3「石山合戦配陣図」》

ずいぶん、現代の地図とは違いますね。

蕎麦屋の店頭を描いた風俗絵本。

《『絵本御伽品鏡』》。

これは恐らく蕎麦通の人ならすんなりと読めるのでしょう。


新町遊郭の噂話を記した情報誌。

《『虚実柳巷方言』》。

名物寄せ「蕎麦は」に「すなバ」はありました。


個々の写真については、当日スライドでご覧いただけます。




以下、最新の『蕎麦Web』通信を貼り付けておきます。

お申し込みは、末尾に書かれているところにお願いします。

『蕎麦Web』通信  2012/03/17
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 東京では、やっと桜が開花したというニュースが流れています。
 南の地方では、すでに満開のところもあるようですね。
 北の地方は、まだ吹雪。南と北の季節の差を、一年のうちで最もはっきりと感じる時期ですね。

 京都で開催する「蕎麦のソムリエ講座」、『大坂の「砂場」の蕎麦の味を考える』にお申し込みいただき、ありがとうございました。
 開催が、いよいよ一週間後に迫りました。
 これまで「蕎麦のソムリエ」運営委員会では、会場としてお願いする京都の老舗「本家 尾張屋」さんと相談したり、講師の先生方と打ち合わせをしたり、新町のあった現地の下見をしたり、蕎麦粉を用意したり、当時の蕎麦つゆはどのようなものであったのかを調べて、それを作ったりと、作業を進めてきましたが、ようやく準備が整いました。
 とても面白い講座になりそうで、今からわくわくしています。

 当日は、講師の先生方のお話のあと、江戸初期の蕎麦が、どのようなものであったのか、2種類の蕎麦と、蕎麦つゆの味を体験していただきます。
 蕎麦も、つゆも、非常に珍しい、江戸初期に近い材料を日本各地から探し出して、日本蕎麦保存会が準備しました。

 もちろん講師の先生方のお話も、興味深いものです。
 従来の説に対して、新たな材料を提示して、今まで知られていなかった「大坂・砂場」の実像に迫ります。
 蕎麦の歴史の一端を解明する、貴重な講座になります。
 どうぞ、楽しみになさってください。


 開催日時は、3月24日、午後2時から5時です。ただし、蕎麦を召し上がっていただくのは、講座の後半、4時くらいからになりますので、昼食は軽く済ませておいてください。
 会場は、創業540年の歴史を持つ京都の老舗蕎麦店「本家 尾張屋」さんです。

 講座は、片山を含め、4人の講師が、お話をさせていただきます。
「本家 尾張屋」さんのご主人、稲岡傳左衛門さん。
 上方の蕎麦についてお詳しい勢見 恭造先生。
 大阪民俗学研究会代表の、田野 登先生。
 そして、片山虎之介の4人です。


会場となる「本家 尾張屋」さんのホームページへのリンクを張っておきますので、場所をお間違えにならないよう、お気をつけてお越しください。
 
 京都で、皆さんにお会いするのが、とても楽しみです。
 よろしくお願いいたします。

(お申し込み)
以下のアドレス宛に、メールでお申し込みください。
メールの件名に「砂場の講座、申し込みます」とお書きいただき、お名前、ご住所、電話番号、メールアドレスをお書き下さい。

(蕎麦Web宛のメールです)
sobaweb@nifty.com


(関係するサイトへのリンクは、こちらです)

会場となる京都「本家 尾張屋」さん
http://www.honke-owariya.co.jp/

片山虎之介
                               
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私へのインタビューが一部記事になっていましたのでアップしました。

【日経記事2013.3.13夕刊】

http://www.nikkei.com/article/DGXNASIH06002_W3A300C1AA2P00/


 「今夜はキタへ繰り出すぞ」「ミナミでタコ焼き食べよ」。
阪急梅田駅を中心とする「キタ」と南海難波駅周辺の「ミナミ」は、
共に大阪を代表する繁華街。

しかし、ふと疑問が。

なぜ、またいつから、カタカナ表記になったのか。

そもそもキタ、ミナミの範囲はどこまでを含むのだろう。地名の歴史をひもといた。

 キタ、ミナミはどこを指すか。国土地理院に聞くと「自治体が決めること」と、つれない答え。

では大阪市の判断は? 「法的な位置付けや定義はありません」(都市計画課)

 観光ガイドブックを製作する大阪観光コンベンション協会によると
「十三をキタに含めることもあれば、最近注目される天神橋筋6丁目(天六)を
キタとは別に取り上げたりします」
と西迫登マーケティング総括部長。
人や状況によって範囲が変わる融通むげな地名のようだ。

2つの街の名前はいつ生まれたのか。

大阪市史料調査会を訪ねると、古川武志調査員(日本近現代史)が
「江戸時代に遡ります」と教えてくれた。

「天下の台所」と呼ばれた大坂の中心は船場や島之内。

その北と南に、商人や武士の遊び場として生まれた街が
「北の新地(曽根崎新地)」と「南地(南地五花街)」だった。

北の新地は「北陽」という別名があったそうだ。
 ただし「時代によって範囲が違います」と指摘するのは
大阪歴史博物館の船越幹央学芸員(日本近代史)。

江戸期の北の新地は現在の北新地とほぼ同じだが、
街の発展で梅田や大阪駅周辺を含むようになった。

南地も、元は現在の宗右衛門町や櫓町。
「現在ミナミといえば、多くが思い浮かべるアメリカ村などは含まれませんでした」
 表記も時代とともに変わった。

古川さんによれば「北陽、南地では読みにくいため、
明治時代に新聞や雑誌で『きた』『みなみ』とルビが振られました」という。
後にひらがなだけで表されるようになり、さらにカタカナに転じたとみられる。

 「初めてひらがなだけで『みなみ』と表記したのは1950年、
大阪鉄道局刊の『大阪案内』のようです」と話すのは大阪民俗学研究会代表の田野登さん。

同書によると48年、大阪市などが市民投票で「大阪新八景」を選定した際、
中之島公園や大阪城と並んで「みなみ」が選ばれた。(写真キャプション略)
 カタカナの初出について田野さんは「54年の雑誌『あまカラ11月号』でしょう」と話す。
食関連の雑誌だ。
確かに「戦争前の、大阪のミナミを……」とある。

 その後「キタ」「ミナミ」の表記が広がったとみられるが、
なぜ人々に受け入れられ、定着したのか。

「ターミナル駅の形成で繁華街が従来の『北陽』『南地』の範囲を超えて拡大し、
新たな街の呼称として一般化した」と分析するのは立命館大の加藤政洋准教授(人文地理学)。

「特にアメリカ村がミナミにでき、カタカナ表記の定着につながったのでは」と推察する。


 一方、田野さんは「それぞれの街を観光地化しようとの思惑が背景」と考えている。

南地はかつて「男性向けの盛り場」という印象の街だったため、
家族連れも呼ぼうと、カタカナでイメージチェンジを図った、との説だ。

「大阪万博に向け、行政が積極的にカタカナ表記を広めた」とする専門家もいる。

 「語源や範囲はどうあれ、キタ・ミナミは単に場所を示す言葉ではありません」。

古川さんは強調する。

「住民の愛着や帰属意識をかき立て、訪れる人はそれぞれのイメージを膨らませる。
そんな不思議な表現です」。

日々変貌する街の姿を何とか言葉に写し取ろうとの人々の思いが、
カタカナ表記には込められているのかもしれない。

(大阪社会部 藤井将太)
[日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西2013年3月13日付](以下略)


晴耕雨読 -田野 登-

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「うめきた」という街が急ピッチで建築されつつあります。

大阪都心最後の空白地であったJR梅田貨物駅周辺が再開発されております。

今回の晴耕雨読は「うめきた周辺に王仁、行基伝承を訪ねる」と題して、

これまで、あまり陽の当たらなかった大阪市北区北部(旧大淀区)の探訪記を記します。

歩きましたのは3月9日(土)午後1時、JR環状線福島駅に16名(うち大阪民俗学研究会会員14名)が集合しました。

阪神高速道路沿いに西を行き、JR東海道本線のガードをくぐりました。

北に行きますと浦江庭球場があり、浦江八坂神社があります。


晴耕雨読 -田野 登-
写真図1 浦江八坂神社

この神社には王仁博士を祀る王仁神社があります。

王仁博士とは、論語・千字文を伝えたとされる百済の学者です。

王仁神社は明治42(1909)年に大仁(ダイニ)から移されたもので、

案内板には、学問の神様として祀られているとあります。



浦江公園を東に行きますと、大仁八坂神社があります。


晴耕雨読 -田野 登-
写真図2 大仁八坂神社

そこは、初世長谷川貞信の「浪花百景」の「大仁邑一本松の社」に「王仁(ルビ:ワウニン)天皇の社」とある所です。


晴耕雨読 -田野 登-
写真図3 初世長谷川貞信「浪花百景」の「大仁邑一本松の社」 

近世末の儒学者である*廣瀬旭荘の弘化4(1847)年4月14日の日記に、大貳村の記事があります。*廣瀬旭荘弘化四(1847)年4月14日の日記多治比郁夫他編集、1983年『廣瀬旭荘全集』日記篇三、思文閣出版、287~288頁

土地の人・八谷源蔵に案内されて「王仁の墓」行きますが、源蔵から「大仁に王仁の墓があるのを知っているか」とたずねられます。旭荘は「知らない」と答えております。さらに旭荘は、後人の附会だとも述べております。この社の献灯には皆「王仁天皇」と書かれてあったとも記されております。

町史や地名辞典に王仁塚の漢詩が載せられている儒学者・廣瀬旭荘が「後人附会」と述べているのですから、いったい、いつ誰が「王仁の墓」「王仁塚」を言い出したのでしょう。

文化3(1806)年の*「増脩改正摂州大阪地図全」以降の地図には「王仁塚」は記されているのです。

*「増脩改正摂州大阪地図全」:玉置豊次郎、1980年『大阪建設史夜話』附図第11図



旭荘日記の同日の記事を読めば、大仁八坂神社を昔の尼崎街道を東に行くと大仁村内に料亭玉藤があったと考えられます。しかし、今のボクにはその場所を特定できません。

晴耕雨読 -田野 登-
写真図4 料亭玉藤跡

そこの名物料理は麦飯でした。


晴耕雨読 -田野 登-

写真図5 料亭玉藤「麦飯 玉ふち 大仁村」 岡本良一監修、1986年『花の下影』清文堂出版、78図



ABC朝日放送のテレビ塔であった大阪タワーの跡地を右手(南)に東に歩きます。その先にはJR梅田貨物駅が見えます。そこには、かつての梅田三昧が広がっていました。

元禄11(1698)年岡田?志自序*『摂陽群談』第九「塚の部」の「梅田墓所」には、「開基行基菩薩」と見えます。

*『摂陽群談』第九「塚の部」の項「梅田墓所」:『大日本地誌体系』(38)1977年、雄山閣、162頁

摂津・河内・和泉を含む畿内の墓地には、奈良時代の高僧・行基の伝承が多く見られます。

その墓地のあったJR梅田貨物駅周辺が、現在「うめきた」と称しての再開発が急ピッチに進んでいるのです。


晴耕雨読 -田野 登-
写真図6JR梅田貨物駅 



一行は、線路に沿って、北に中津陸橋をめざします。ここでようやく、阪神北大阪線が走っていたバス路線に出ます。かつて、中津川左岸には菜の花畑が広がっていました。今は、どうでしょう。その光景も道路、鉄道線路にふさがれて見えません。

済生会病院前からは阪急中津駅と梅田駅を繋ぐ高架をくぐり、阪神バスの北野停留所へ渡ります。

東前方には、JR京都線の高架が見えます。右手(南)にはMBS毎日放送の斬新なデザインのビルが見えます。しばらく行くと、左手(北)に源光寺の堂舎が瀟洒な白壁の奥に見えてきます。

晴耕雨読 -田野 登-
写真図7 源光寺

前回の晴耕雨読「阪神北大阪線沿線・源光寺における行基伝承-『摂津国南浜村源光寺文書』を軸に-」に紹介しました寺です。

この寺は、現在、法然上人(円光大師)ゆかりの寺として浄土宗知恩院派に属しますが、明治10年以前は、河内に多い融通念仏宗の寺でした。

境内の石柱・道標には「はまのてら」(浜の寺)、「是より東/七はか道」などの文字が見られ、かつての七墓参りで賑わった浜の墓とのつながりを偲ぶことができます。

また、会員の方から常夜灯に「施主 女六百人」と刻まれた文字があることを指摘されました。この指摘は、女性が前近代において、この寺にどのように関わってきたのかを知る手がかりになるものでしょう。



源光寺の山門を出ますと、東にJR京都線の高架が見えます。めざす浜の墓は、ガードを抜けて右(南)にあります。文化3(1806)年の絵地図では井路川に架かる橋を渡って、真っ直ぐの所に「濱墓所」とあります。

現在は、地蔵堂が建ち「行基菩薩開基南濱墓所「道引地蔵」の石柱が立っています。訪ねた時は、一人の男性が木魚を叩いてお勤めの最中でした。お勤めを終えられた男性は、行基による火葬の始まりが、この墓地であるとの趣旨を記した掲示を指さされた。ああ、そうなんだ、この墓地もまた行基を祖とあおぐ三昧聖のひとたちが開いた墓地なのだ・・・。


晴耕雨読 -田野 登-
写真図8 南浜墓地

堂宇の裏の墓地は、訪れるたびに、きれいに整備されているのに、驚嘆します。初めて訪れたのは、『大阪のお地蔵さん』を書くための調査の時ですから、もう20年も前のことです。

妙知焼けと呼ばれた享保9(1724年)年の大火の供養墓をはじめ、墓地には、さまざまな歴史が刻まれております。今回は会員で大塩研究会のメンバーの方が、大塩の墓標のあることを確認されました。大塩平八郎は、天保8年(1837年)に、大坂町奉行所の元与力で、「大塩の乱」というのは、その門人らとで、起こした幕府に対する反乱であります。大塩平八郎は、いわば浪花の義民であります。墓地は歴史の宝庫なのです。

一行は、その後、天神橋筋六丁目(天六)まで歩き、大正末期、新京阪鉄道が誇っていた電鉄駅内蔵型高層ビルの跡地が高層マンションに生まれ変わっていることを確認し、解散しました。

4時間歩きましたが、春日は暮れるのにまだ時間がありました。



ボクは全国大学人権教育交流会において「三昧聖の墓をめぐる行基の伝承」を発表します。一般からの発表聴講もできるそうです。興味のある方は下記まで。

日時:3月31日(日)10時30分~12時 

場所:関西学院大学 大阪梅田キャンパス1405号教室

参加費1500円 学生他1,000円(当日)

○参加予定の方は、以下の場所に連絡してください。当日参加もできます。

北山雅博 関西学院大学人権教育研究室 西宮市上ヶ原一番町1-155

mail:masahi@kwansei.ac.jp  Tel&Fax:0798-54-6720

お問い合わせ:上記または、日野謙一 kr-hino@nifty.com まで




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