1.イラク石油の歴史


(2)フセイン体制化での石油開発(前回 のつづき)


1991年に湾岸戦争でイラクが敗れ、クウェートから撤退しても状況は変わらなかった。フセイン政権が存続したため、国際社会も経済制裁を続けたからである。もちろん石油生産は日量二百万バレル程度の低いレベルでは続けられたが、新規油田の開発には手がつけられない状況であったし、生産設備も老朽化する一方であった。1996年にイラク国民の困窮を救済するために、国連の管理下での石油の輸出が部分的に再開された。しかし、輸入代金は国連が管理し、食料と医薬品のみの輸入が許可されたに過ぎなかった。


一部でも石油の輸出が許可されると、イラクはこれを外交上の取引材料に使った。イラク原油の購入の権利を入札で落札できたのは、ロシア、中国、そしてフランスなどのアメリカの対イラク政策に批判的な諸国の石油会社が主であった。アメリカ、イギリスの各社は当然のことながら、日本の石油会社も政府が親アメリカ的であるとして、落札できなかった。


また2001年のアメリカでの同時多発テロ以降、イラクが大量破壊兵器を隠し持っているとして、イラク攻撃という議論が高まってくると、イラクはこれを阻止しようとして安保理の常任理事国のロシア、中国、フランスに巨大油田の開発権を与えた。将来、国連の対イラク制裁決議が撤廃された暁(あかつき)には、こうした諸国は莫大な利益を得る可能性を与えられたわけである。国連での議論でイラク寄りに動くことが期待された。なぜならば実際にイラクが攻撃され、フセイン政権が倒れてしまえば、この契約自体が無効になる可能性が高かったからである。将来の利益を約して自国への攻撃を阻止させようとのフセイン政権の動きであった。確かに、この三カ国はイラク攻撃には反対で、それゆえ国連安保理ではイラクを非難する決議は成立したが、明確に武力の行使を容認する決議は成立しなかった。このため2003年に始まったイラク戦争は、国際法的には問題の残る形で始められた。


>>次回 につづく