(続き)
でも、「リスペクト」と「オマージュ」を誤解している残念な例もあります。
わかりやすい例として、平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ)を挙げます。
1984年版の「ゴジラ」は論外として除きます。(「シン・ゴジラ」の成功の裏にはは84年版「ゴジラ」大失敗の反省があると思う)
平成ゴジラvsシリーズは、当時の社会問題を背景にゴジラを描こうという意図がありました。
バイオテクノロジーをテーマとした「ゴジラvsビオランテ」(1989年)はまあ良い出来だと思います。(しばらく中断していたゴジラシリーズ再会作として嬉しかったのもある)
次のジャパンパッシングをテーマにした「ゴジラvsキングギドラ」(1991年)くらいから怪しくなります。
「ゴジラvsキングギドラ」には「ターミネーター2」から引用したと思われるシーンが出てきますが、どう見てもチャチなモノマネであり、とても「オマージュ」と言えるものでは無かった。
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更に次の自然破壊をテーマにした「ゴジラvsモスラ」(1992年)に至ると決定的にダメダメとなってしまいます。(同作品は興行的には成功したようですが・・・バトラは好きなんだけど・・)
ここでは本家の1961版「モスラ」を当時の最新の特撮技術で再現しようと頑張ってはいます。でも、本家に比べてチャッチい感がするのは否めない。
また、インディジョーンズのチャチなモノマネもしており、これもとても「オマージュ」とは言え無い。
また、自然破壊と言うテーマも未消化です。
自然破壊をテーマにするなら、ロード・オブ・ザ・リング第二作「二つの塔」で悪い魔法使いが森の怒りを買って壊滅するシーンの一部でも表現する必要があったと思う(同シーンは個人的には「ロード・オブ・ザ・リング」の中でも屈指のお気に入りシーンです。)
決定的なのは、本家の1961版「モスラ」でジェリー伊藤が演じたヒール”悪徳興行師”の役割を、あろうことか主人公が演じてしまう事にあります。
本家「モスラ」では”悪徳興行師”が金儲けのために小美人を奪って連れ回し、本来悪意は無いモスラの被害を拡大させてしまいます。92年版「ゴジラvsモスラ」では、この悪役の行為を主人公が演じてしまいます。
これは、「オマージュ」どころか本家の意味を取り違えているとんでもない誤りです。
こんな事が生じるのは、本家「モスラ」を理解していないことの証左と思います。
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オマージュとは、対象物をきちんと理解し、リスペクトし、自分なりに昇華させた上で生じる物なのです。
つまり、「正しい理解」と「リスペクト感」を欠いた人物が”最新技術”だけに頼って物を作ると、とんでもない間違った物が出来てしまう危険性があるのです。
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実はこの論説は昨日まで書いてきた(けどあまり反響は無かった)AI問題の続きです。
「正しい理解」や「リスペクト感」を欠いた人物が”最新技術”だけに頼って物を作ると、とんでもない間違った物が出来てしまう危険性はAIにも当てはまると思うのです。(「ゴジラvsモスラ」なら笑って済ませるけど)
そんな所にもAIに対してはキモチ悪さを懐いてしまうのです。
(リスペクトとオマージュ 終わり)