宮崎監督について書いたので続いて高畑勲監督について書いてみます。
(みんな解ってる話だとは思うが今後のブログの布石として敢えて書く)
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古代ギリシャの哲学黎明期に説かれた理論でイデア論と言う物があります。
---[Wilopediaより引用]---
イデア論(イデアろん、英: theory of Forms, theory of Ideas, 独: Ideenlehre)は、プラトンが説いたイデア(希: ιδ?α、英: idea)に関する学説のこと[1]
本当にこの世に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚している対象や世界とはあくまでイデアの《似像》にすぎない、とする。
---[引用終わり]---
高畑監督については下記のような記載があります。
--鈴木敏夫著「ジブリの仲間たち」(新潮社刊)P122より引用--
(「となりの山田君」の制作に当たり)
当時は時代の不安感を反映してか、映画も人間の心の内面を描く作品ばかりになっていました。
「もっと人間の外面を描く映画があってもいいんじゃないか?」
高畑さんとの対談の中でも、そういうことが話題になった覚えがあります。
---[引用終わり]---
--高畑勲著「漫画映画の志」(岩波書店刊)より引用--
「火垂るの墓」「おもひでぽろぽろ」をふくめ、わたしはそれまでも観客を完全に作品世界に没入させるのではなく、少し引いたところから観客が人物や世界を見つめ、「我を忘れ」ないで、考えることができるような工夫をしてきたつもりではいたのです。
---[引用終わり]---
もっと良い例があったと思いますが、捜したけど見つからなかったので、取り敢えず上記を引用しました。
鈴木PDの引用部分は「となりの山田君」についての話ですが、「山田君」に限った話ではなく、ここに引用した文言は他の総ての高畑勲作品の本質を突いていると思います。
つまり、高畑監督は、
数々の名作を生み出してきており、それらは「作品」としてそれ自体高度な完成度を以て成立しているのですが、実はその作品を通して「その先にある何か」を観客と示そうとしている、
と言うのが私の所感です。
(続く)