日記/書簡 フィッツジェラルドの手紙 その3 | ScrapBook

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ヘミングウェイ晩年の作品「移動祝祭日」には、1920年代のパリの模様が描かれており、その中には、彼がフィッツジェラルドに出会った頃のことが記録されている。
「彼はいくつも質問をし、作家や、出版社や、批評家や、ジョージ・ホレス・ロリマーのことや、ゴシップや、成功した作家であるための出費などについて、私に語った。そして、彼は、皮肉で、こっけいで、とても陽気で、魅力的で、好感をもたせた。たとえ、だれに対しても好感をもつことを警戒している人にとっても。(移動祝祭日)」。

この部分だけを読むと、ヘミングウェイは好感をもってフィッツジェラルドを描いているように思えるのだが、彼らの蜜月はわずかしか続かず、後年、ヘミングウェイは著書「キリマンジャロの雪」の中でフィッツジェラルドの実名を出し中傷するまでにいたる。

「ぼくの名前を活字にするのは止めてくれたまえ。ぼくが時として深き淵よりを書いたとしても、友人たちにぼくの死体にお祈りを捧げてくれといっているわけではない。きっときみはよかれと思ってしたのだろうが、ぼくのほうは一夜の眠りを犠牲にしたよ。だからきみがそれ(例の短編)を本に入れるときには、ぼくの名前をカットしてくれないか? あれはいい短編だ——きみの傑作の一つだ——『哀れなスコット・フィッツジェラルド云々』がかなりぼくの興味をそいだけれど(1937年6月5日アーネスト・ヘミングウェイ宛書簡)」

「深き淵」とは、フィッツジェラルドが1936年に発表した『崩壊』のことを指す。彼の胸中には、1924年のパリにおいてまったく無名であったヘミングウェイを大手出版社に紹介する労を尽くしたときの気持ちがわずかでもあっただろう。そんなことを考えると、彼のヘミングウェイへの慇懃な文面はあまりに哀れである。

1924年1月。25歳のヘミングウェイはこの年からパリにおいて本格的な文学修業時代を開始する。ジェームス・ジョイスをはじめとする文学者との交際が始まったのもちょうどこの頃からであった。3月には小品集『われらの時代に』をスリー・マウンテンズ社から出版する。初版部数はわずか170部であった。

同じ頃、フィッツジェラルドは、後に『グレートギャツビー』となる作品を新しい視点から書き直していたところであった。
「昨年の夏書いた原稿の多くの部分は中々の出来ばえでしたが、途中何度も中断したので全くひどいものとなり、新しい視点から書き直したとき、かなりの部分を切り捨てなければなりませんでした——ある場合は、一万八千語も切りました(1924年4月16日頃マックスウェル・パーキンズ宛書簡)」

10月27日頃に送られた書簡には、「別便で第三番目の小説『グレートギャツビー』の原稿を送ります。(本当に自分自身の、満足できる小説がとうとう書けたと思います。しかし、『私自身のもの』がどれだけの出来ばえかはこれから判断される問題です)」と記されており、このとき送られた原稿に対して、編集者のマックスウェル・パーキンズは、賞賛の言葉をフィッツジェラルドに送った。
だが、この時点では、作品のタイトルが正式に決まっておらず、フィッツジェラルドは『金の帽子のギャツビー』を提案しており、翌11月20日の書簡では、『トリマルキオ』、『ウェスト・エッグへの道』、『高く飛び上がる恋人』を本人があげている。

それにしても小説のタイトルが、『トリマルキオ』はともかくとして、『金の帽子のギャツビー』や『ウェスト・エッグへの道』、『高く飛び上がる恋人』に決まらなくて本当によかったと思う。少なくともこれらのタイトルに決まっていたら、現在ある『グレートギャツビー』の魅力の2割から3割を失うところではなかったか?

タイトルを巡る問題は、翌12月になっても解決せず、フィッツジェラルドは、『トリマルキオ』または『ギャツビー』でよいかもしれないと書送り、あいまいな人物として描かれているギャツビーを「迫力のある人物」に修正することを伝えている。「彼の人物像を明確にいたします(1924年12月1日頃マックスウェル・パーキンズ宛書簡)」。

そして、彼は再び原稿に向かう。(続)