日記/書簡 フィッツジェラルドの手紙 | ScrapBook

ScrapBook

読んだ本についての感想文と日々の雑感、時々音楽のお話を

「追伸 とびらの校正等送り返しました。O・Kです。まだ『トリマルキオ』という題にしておくべきだったのではないかと思っています。しかし皆さんの忠告に反対してまで固執するほど馬鹿でも強情でもありません。『ウェスト・エッグのトリマルキオ』は妥協にすぎませんでした。『ギャツビー』は『バビット』に似すぎていますし、『偉大なるギャツビー』は弱いと思います。なぜなら彼の偉大さ、あるいはそれの欠如を諷刺的にさえも強調していないからです。しかし、まあそれはそれでよいでしょう(1925年1月25日 マックスウェル・パーキンズへの手紙)」

年末に「フィッツジェラルドの手紙」を購入した。以前から読んでみたいと思いながら、放擲した一冊となっていたが、この年末年始の休暇を利用して読むことができた。内容があまりに興味深かったので、元旦の一日をかけて、読み切ってしまった。

僕の購入した「フィッツジェラルドの手紙」は、荒地出版から1982年7月25日に出版された初版本である。四六版、ハードカバー、本文のページ数は201ページとなっており、副題に「愛と挫折の生涯から」と付されている。なお、荒地出版からは、フィッツジェラルドの作品集が刊行されていたが、現在では入手困難となっているようである。

書簡集の多くは、書かれた順に書簡を所収する編集が施されていることが一般的であるが、本書は全体が一部と二部とに分けられ、前半に母や妹、妻、娘、愛人、知己友人宛等の手紙によって、後半はチャールズ・スクリブナーズ・サンズ出版社の編集者マックスウェル・パーキンズ宛の手紙を主体としてまとめられている。つまり、宛先ごとにまとめられるという編集が施されているわけである。僕はこの編集に不満である。
10歳の彼が母親メアリーに宛てて書いた手紙の次には、プリンストン大学に入学したことを知らせる17歳の時の電報が紹介される。続いて、1917年7月にミネソタ州セント・ポールに帰郷した彼がフォート・スネリングで少尉任官臨時試験に応募し、同年の10月現役少尉任官辞令を受けたことを母に知らせる書簡が並ぶ。近況を母親に知らせる手紙が5通並べられた後には、妹アナベルへの手紙が2通収められている。1通は19歳の頃の手紙であり、もう1通は39歳の頃の手紙であるが、それらを続けて読んでもほとんど意味が分からないのである。
本書を読むにあたり、読者は彼の生涯についてある程度の知識を持っておかなければ、並べられた書簡に書かれている内容を理解することが難しいわけである。

無論、宛先別に編集することにより手紙の書き手の人物像を鮮明に浮かび上がらせる場合がある。たとえば画家のゴッホ。弟テオに宛てた彼の手紙は、小林秀雄に私小説であると言わせた内容であるが、テオ以外の者に宛てた手紙では、彼が彼自身を語ることが少ない。
フィッツジェラルドの場合には、妻であるゼルダと、編集者であるマックスウェル・パーキンズ宛の書簡には、彼という人間を語る内容があるが、それ以外の人に宛てた書簡は、資料的価値を有する程度の内容である。

本書に関する不満はもう一点ある。
翻訳されている書簡の一部は、抄訳となっており、省略した部分に注を加えて補足しているのである。注を加えるなら、全訳すべきではないか。約3000通残されているといわれている彼の書簡のうち、本書にはわずか約100通が所収されているだけである。

本書は、所収された書簡が少ない上に、様々な人たちに宛てた手紙をばらばらに配置し、また、一部が抄訳されるという甚だ中途半端な編集がなされているのである。

このような中途半端な編集を行うならば、むしろゼルダ宛の手紙だけを完全翻訳し、書簡と書簡との間にある背景を注として加えて一冊にまとめるか、または、編集者マックスウェル・パーキンズ宛の手紙を同じようにまとめたほうがよかった。前者は、人間フィッツジェラルドに、後者は、作家フィッツジェラルドに焦点をあてたものとして流れを持った、まとまったものとなったのではあるまいか。

とはいえ、現在のところ比較的入手しやすい彼の翻訳された書簡集は本書だけである。わずか100通しか所収されていない本書であるが、興味深い内容の書簡も収められている。たとえば、冒頭に引用した「1925年1月25日 マックスウェル・パーキンズへの手紙」では、彼の代表作である「偉大なるギャツビー」のタイトルをめぐって、フィッツジェラルドは『トリマルキオ』を主張している。
ペトロニウスの小説に登場する、派手好きの金持ちのことのようであるが、本書に所収された書簡の中にはそれに関する言及はない。
wikipedia:サテュリコン
http://ja.wikipedia.org/wiki/サテュリコン

ギャツビーを「偉大」であると考えた著者が、「グレートギャツビー」と名付けたのだとばかり想像していたのだが、その実、著者フィッツジェラルドは、ギャツビーのことを偉大であるし、偉大さが欠如した人物として考えていたことが書簡からわかる。

もっとも、著者がどのような意図のもとに登場人物を造型しようとも、著者の意図の通りに登場人物が作り出されるとは限らないし、また、読者や批評家がそのとおりに解釈するとは限らない。フィッツジェラルドの書いていることは、あくまで舞台裏のつぶやきであり、彼の考えが必ずしも「偉大なるギャツビー」の解釈に関する「正解」ではない。
作家により創作された小説は一人で歩き始め、読者により読まれるという過程を経て初めて「小説作品」となるのだから。その意味で、小説(小説だけに限らないが)は、作者と読者との共同作業の上に成り立つのである。

話がそれた。今回は本書に関する内容よりも、本書の編集上の話が中心となってしまった。本書に関しては、面白そうな部分について今後紹介するつもりである。

それにしても、僕にとっては興味深い、関心をそそられる書簡集であるからこそ、前記した本書に対する編集上の僕の不満が高まってしまうのである。

村上さんがフィッツジェラルドの書簡を翻訳してくれないだろうか?