完全受け売り演技論シリーズ蔵出し編②


と言う訳 の②でございますm(__)m


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(前略)ところが、残念なことに多くの俳優はチャンス最優先主義に陥り、じっくり実力を蓄えることより、一刻も早くスポットライトを浴びようと愚かな挑戦を繰り返してしまう。「役さえ貰えばこっちのものだ」という安易な発想である。それがプロとしての俳優生命をいかに短くするものであるかが全く分かっていないのだ。


 スポットライトを浴びるという事は「問われる」という事である認識が低いのだ。


 実力不足の状態で大きな仕事を受ければ簡単に「大根役者」の烙印を押されることになる。キャリアが浅いのに良く頑張った。次に期待しよう」といった事を考えるようなお人好しの製作者など皆無に等しい。安易なデビューによって永遠に消えていった俳優がいかに多いか、それによっていかに苦労している俳優が多いかをプロ志望者はよく考える必要がある。


 ジュード・ロウはデビューについてこうも語っている。
 「安易にプロになると大変だ。デビュー前に様々なことを試し、じっくりと実力を蓄える事が結果的に成功へと繋がる」


 演技力とはじっくりと培っていかねば身に付かないものだ。
 安易に短いストロークのプロの現場を重ねることは結果として自分の首を締めることになる。それはデビュー前の段階であっても全く変わらない。


 作品を重ねることと俳優の成長は決して比例しない。学び得ない100の現場より、学び得る一つの現場を経験することが重要なのだ。


 キャリアとは重ねれば良いのでは無い。
 重ね方が重要なのである。


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一流のプロが揃い、人間関係によって作品が崩れる最も大きな原因は「人間同士の相性にほぼ尽きるといっても良い。ブランドの言う「エゴが過剰にぶつかり合う」状態が生まれるのも相性が悪いからである。


 「仕事に私情を挟むな」
 「嫌いな相手ともキチンと仕事をこなせるのがプロだ」

 と言ったような言葉をよく耳にするが、こういった言葉は日本人が好きな「不自然なほど過剰な建前論」にしか過ぎない。上記の言葉をそのまま適用してやれるのはある程度のレベルまでの仕事であって、最上質の仕事を行うのはほぼ不可能だと言って良い。


 舞台や映画といった総合芸術で良質の作品を創ろうとした時、現場で最も重要となるのは演出家以下の製作陣の微妙な呼吸が合うかどうかに尽きる。この呼吸が合うかどうかは「製作陣の能力」と「人間的相性」が揃うかどうかにかかってくる。「人間的相性」については相手のことを好きになるほど良く無くても良いが、嫌いになるくらい合わなければ話にもならない。


 特にコミュニーケーションが密になる演出家と俳優、絡む俳優同士の相性が悪いのは致命的だ。繊細で微妙な感情描写の完成度を、相性が悪い者同士で上げようと思う事自体間違いだ。
 これは「互いを理解し合う」「互いの尊重」などといったキレイごとではどうにもならない。


 この相性の問題を考慮した上で製作チームは組まれなければならないのだが、現場に入る前段階で全てが分かるわけでは無いのが難しいところだ。


 もし、現場に入って「本格的な相性の悪さ」が発覚した場合には、互いの気遣いによって最悪の事態を回避する方向に持っていく以外に方法は無い。ヘタに「相互理解」を押し進め、その事でクオリティを上げられるという幻想を抱けば、事態は最悪となる。相性が悪い時点でbestは望むべくも無く、betterまで持っていければ御の字だと言って良い。むしろ、割り切ってbestを狙ってはならない。


 実際の現場では「演技術」とは別にこうした相性の問題に対する「割り切り」が必要とされる場合がある。こうした割り切りが出来ることは俳優にとって「演技術」と同等に重要な要素となる。


作品創りというものは個々の能力を即物的に組み合わせる事によって成り立つものでは無い。個々の能力を有機的に組み合わせる為には価値観を含めた様々な要素というのが重要になるのである。この要素の中に技量以外のものが含まれることを忘れてはならない。


 そして、演出家と俳優は人間的な相性もさることながら、一緒に作品を創る上での芸術的価値観についてある程度は共有することが出来る関係にあるのが理想であり、出来る限りその状況を作ろうとするべきである。酒を飲んで仲良くなれれば上手くいく程、作品製作とは単純なものでは無いのだ。


 良質の作品(演技も含めて)を創っていくには「個々の能力」と「個々の相性」の二つの問題は最重要になる。映画も舞台もそうした繊細な物が上手く絡み合った時でなければ上質な作品には決してならない。


気合いと根性だけで名演、名作となるなら誰も苦労はしないのである


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「この小さな獣に人としての礼儀を叩き込まなければならない」 【クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ】


 小さな獣の名前はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。彼が11歳の時に師となったネーフェは幼い天才を見て思った。歩くニトログリセリンのような情緒不安定の癇癪持ちだった少年は、ネーフェによって音楽家に必要な精神のコントロールの仕方を叩き込まれる。


 ハンス=フーベルト・シェンツェラーは「20世紀になって音楽学校が充実した反面、傑出した音楽家が余り出てこなくなった」と言っている。


 レベル向上を望む俳優たちは、自分の演技が上手くいかない理由を技術・感性・感覚の不足に求める。その中で一部の者は不足している技術・感性・感覚が何であるか?という事を探り当てることに成功する。だが、それに成功した殆どの者もそこから向上する事は無い。正しく言えば向上を試みて失敗する。何故なら、彼らは不足している物を見つける事が出来ても、「何故不足しているのか?」という答えを見つける発想が欠如しているからだ。この事は演技指導者の多くにもそのまま当てはまる。


 演技指導者にとって重要なことは、演技している俳優の内面(役の内面では無い)で何が起こっているのか?という事が分かる事だ。人間の行う全ての行為は、その人間の精神面に動機がある。つまり、演技が上手くいかない根本原因の殆どはその俳優の精神面に起因するという事だ。これは呼吸、発声、滑舌といった技術についても同様である。


 少し前に、演出家であり優れたボイストレーナーでもある知人と話をした時の事だ。知人は呼吸を発声に繋げる上で、精神的なモノが障害になるケースについて語ってくれた。問題が起きた時、問題の原因の裏に根本的原因が潜んでいるという事だ。これは全くその通りで、トレーニングの時間が多い割に上達しない俳優というのはトレーニングの仕方以前に、トレーニングというモノに対する理解が雑なケースが多い。その雑さというのは性格面に起因する場合が殆どだ。


 即物的な学習システムに沿って課題を消化する事を繰り返したところで演技が向上することは無い。また、システム教育、システム学習では才能がある俳優程潰される事になる。演技とはシステムに沿って処理出来る程狭い範疇に収まるモノでは無いのだ。


 メソッドとは体系化された一つの方法論の事だ。また、方法を体系化する場合、それを細部に渡って全て決定し即物的なシステムにするのは芸術を全く理解しえない愚か者のやる事だ。メソッドとは物事の大筋を別り易くし、多くの人間に伝える為に広義の意味で作られるものだ。即ち、どんなに優れたメソッドであっても個別の問題に対して全て解決策を与えてくれるメソッドなど存在しない。 メソッドは演技を行う上でのヒントは与えてくれても、結果として自分にとって実用的な演技術は自分で生み出す以外に方法は無いのである。


 アル・パチーノはストラスバーグ門下という事になっているが

「メソッドに頼って演技する俳優は馬鹿だ」とストレートに語っている。


 当たり前だ、システムに沿うだけで良い演技が出来るなら誰も苦労はしない。


 レベル向上を望む演技者は演技法やトレーニング法にのみ目を向けてはならない。その二つに全ての意識が集中する時、感性は死に視野は極端に狭まる。


 演技とは人間が行う行為なのだ。演技を構成する要素は芸術面にのみ存在するのではなく、演技する人間のプライベートにもある。演技が上手くいかない原因が芸術面にだけあるとは限らないのだ。


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「司馬文学はまことに奥行きの深い人間学そのものなのである」 【矢沢栄一】


 司馬遼太郎という作家の真骨頂とは歴史を題材にしたことでは無い。人間を俗論や表層の道徳観に惑わされずに容赦なく描ききったことにある。


 名優を志す者は人間という者について深く知らなければならない。
 演技表現とは即ち人間心理の描写であるからだ。
 これは脚本家・演出家にとっても当然同じである。


 殆どの人々(どの国でもそうだが)は日々の生活と経験の中で人間について学び、個々の人間観を養っていく。それは社会生活を送る人間の本能的な知恵であり、多少の教育や意志というものがあったとしても、大きな意味では受動的なものである。

 しかし、演技というものが人間心理を描写する物である以上、俳優は「深い人間探求」能動的に行っていく必要がある。


 この「人間探求」というヤツは実にやっかいな代物だ。
 異なる感情と思考を同時に内包し、矛盾を矛盾と思わず並立させることもある「人の心」というのは実に複雑なものだ。この分かり難い代物を理屈では無く、皮膚感覚で理解していく事が俳優にとっての「深い人間探求」ということになってくる。


 この「深い人間探求」を行う上で重要となるのが「経験」「観察」「分析」の三つになるのだが、特に難しいのが「観察」と「分析」だ。なぜ、難しいかと言えばこの作業を行う時に多くの人は「矛盾否定論」と「善悪論を前提としてしまうからだ。


 「矛盾否定論」とは一人の人間の中に極端な矛盾が並立することを受け入れられないという事だ。
 「善悪論」とは読んで字の通り、物事を善と悪という単純明快な視点で見るということである。私はここで善悪論議をするつもりは無い。また、「物事に善悪など無い」というような馬鹿馬鹿しいほど非社会的なことを言うつもりも無い。但し、善悪とは結果や行為のことであって、それを前提に人間自体を計ろうとすれば、人間心理の表層にすら辿り着けないとは思っている。


 例えを上げよう。
 「ヒトラー最後の12日間」という映画が公開され大きな話題となった。
 この作品の論評で「弱々しさによってヒトラーが人間的に見えてしまう」といった意味の物が多かった。これは映画ファンの感想としては頷けても、評論家(プロと名乗るなら)の論評としては軽薄な物といって良い。


 よく人は他人の「弱さ、優しさ」といった物を見た時に「あの人の人間的な部分を見た」と言う。善悪論で人間を見るとそういう事になる。だが、実際にはプラス感情・マイナス感情・善・悪ひっくるめて人間なのだ。「冷酷さ」「醜さ」といった物も人間らしさだという事である。


 ヒトラーが歴史上の悪人だから「悪人だ」という視点しか持てなければヒトラーという人物の本質を描いた脚本を書き、演出することは決して出来ない。当然だが演ずる事も出来ない。悪人は悪人らしくなければならないというのは「矛盾否定論」でもある。


 「ヒトラー最後の12日間」に対する多くの論評は、ある意味日本映画の人物描写に対する限界を表しているとも言える。日本映画(TVドラマ含む)で描かれた歴史上の著名人の多くはスケール感乏しく劇中に登場する。これは人物描写を行う前段階の視点が「善悪論」「矛盾否定論」を前提としている為に描く人物の側面しか捉えることが出来ないからだ。


 また、歴史上の人物に限らず映画「羊たちの沈黙」アンソニー・ホプキンスが演じたレクター博士。映画「タクシー・ドライバー」ロバート・デ・ニーロが演じたトラビスのような複雑な人格が日本映画に登場することは少ない。ヒトラー、レクター、トラビスといった人物は矛盾を並立させている複雑なキャラクターだ。こうしたキャラクターは人間に対する理解が一元的なだと決して描く事は出来ない。


 誤解の無いように言っておくが、これは人物描写を行う上で脚本上のキャラクターの陰陽が必ず描かれていなければいけないという意味では無い。どういう描写にするにしろ、書き手に深い人間洞察がなければキャラクターは軽くなるという意味だ。これは演ずる側にも当然通じる。


 こうした事を知る上で「深い人間探求」というものが必要となるのだが、これはなかなか骨が折れる仕事だ。何故なら「深い人間探求」とは「人間的成長を促す」というようなキレイな物では無いからだ。「深い人間探求」という言葉を聞いた時多くの人は「人間の素晴らしさを知る」と夢想する。だが、実際は陰陽ひっくるめて深く知るという事だから「嫌な部分」も沢山知ることになる。「嫌な部分」を知り過ぎて混乱し、人間に嫌気が差し、映画・演劇どころではないという事にもなりかねない。


 この辺りが「深い人間探求」の難しさなのだが、これに対応するには自分なりの「良い加減」というのを知る必要が有るだろう。


 俳優は多くの性格・人格を演じなければならない。


 それを説得力のある演技として結実させるには演技術だけでは不足だ。

 「深い人間探求」と演技術が結びついて初めて名演が生まれるのである。


-以上-



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by:しゃと俳優沙人(しゃと)の日記

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