完全受け売り演技論シリーズ蔵出し編①


大好評の内に完結したこのシリーズ。

終わってからの反響も未だございまして、その反響の良さに気をよくした蔵出し編です(笑)


まぁネタ的には実はまだ半分位なんですけどね^_^;

なにぶん感覚的な事が多い内容なので、あまり多く紹介しすぎると、却って逆効果になる危険性もあるので、先日終止符を打ったんですが・・前述のように反響がよくて(*^^*ゞ


その残ってる中でも今回ふたつの記事に分けて一気に紹介する内容は、一般的に言う演技術とはまた違った部分を論点にしていますので、これは或る意味「実戦応用論」みたいな感じで参考になるかも?と思い、明日からしばらくはロケで更新もままならないと想定されるので、その間の繋ぎ的な意味合いも兼ねて、一夜だけ復活させてみることにしました♪


よろしければ“考え方のひとつとして”参考にしてみてください(^-^)/


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 「映画というものは音楽的なリズムが流れていないといけないものだ」 【黒澤 明】

 

 ストーリー(作品含む)というものには必ず流れがある。
 ストーリーとはブツ切りにされた出来事(シーン)をただ繋げて作った物では無く、一定の音楽的リズムによって最初から最後まで構成されているものだ。これはよく出来た作品ほどそうである。逆に言えば観客の印象に残らない作品ほどリズムの中に無駄・無意味な不協和音が混入され、一定のリズムを保つことが出来ていない。ここで言う流れとは起承転結のことでは無い。


 同じく、登場人物(役)の心理にもこの同じ流れが必ず存在する。
 ここで言う流れとは登場人物の心理の移り変わりという意味では無い。登場人物の心理の流れには一定の音楽的リズムが存在し、それを保ちながらシーンによって様々な感情を表していくという意味である。


 この「ストーリーと役の二つの流れ」を把握することが出来ると「どう動いて、どう喋ればよいのか?」という事が感覚的に明瞭になってくる。


 役の理解と役作りについて懸命になっていると、俳優はしばしば近視眼的な視野に陥り易くなる。知らず知らずのうちに自分の出演シーンにのみ焦点が絞られた状態で、役をどう演じるかという事だけで頭の中が一杯になってしまう。


 こうなってしまうと次の二つが感覚的に分からなくなる。

1・「役」という物が作品を構成する一つの因子であるという事。
2・作品全体が見えずには役を上手く演じる事が不可能な事。

 この二つは理屈ではなく、感覚的に理解されなくてはならないモノだが、その感覚自体が麻痺を起こしてしまうのである。


 こうした状態に陥る俳優は前記の二つの流れが全く見えていないものだ。

 作品には流れがあり、その流れに沿って役の心理というものは必ず動いていく。


 この流れを理屈ではなく、感覚的に捉えられるようになる為にはまず作品の中から自分の役について独立して考えてしまうという発想を徹底して排除する必要がある。役の独立発想をしてしまうと、どれだけ役の心理分析を綿密に行い、それを元に演じたところで劇世界と役が馴染むことは決して無い。


 次に大事な事は作品(映画・演劇)というモノがどういった相乗効果によって作られる物であるかを知っておくことだ。これは映画学や演劇学というより、作品構造学と言ったようなものだ。


 多くの俳優は役の心理をどれだけ表現出来るかという事が俳優の仕事だと思っている。ここに意外な盲点が存在する。その盲点とは「何の為に役の心理を表現しなければならないのか?という事だ。

 「役の心理を観客に伝える為」という答えはこの問いの答えとしては不適当である。


 また、これは殺陣にも通じる。徹底してリアリズム重視の殺陣を行ったと仮定してみよう。ここでやはりなぜ、この殺陣でなければならないのか?」という問いが出てくる。「生々しい迫力を出す為」という答えはやはりここでは不適当となる。


 この二つの問いの答えは全て「流れ」の中にある。


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「フルトヴェングラーは楽譜に忠実に演奏することより、作曲家の精神に忠実に演奏することを心掛けた。これは楽譜を軽んじるという意味では無い。彼は楽譜に書かれてあることだけが作曲家の全ての意図では無いことを知っていたのだ」 【フーベルト・シェンツェラー】


 20世紀を代表した指揮者フルトヴェングラーのこの故事は音楽家だけでなく、多くの演出家と俳優に対する多くの教訓を含んでいる。その教訓の一つは作品とは演出家の持つイメージに沿って形作られるという事だ。


 映画であろうが演劇であろうが作品世界を最終的に決定づけるモノとは演出家の演出意図である。
 演出意図とは「観客に対して作品が何を言いたいのか?」という事では無い。
 「観客に対して作品が何をどう言いたいのか?」という事だ。


 この「どう言いたいか?」という部分が劇世界を創る指針となる。 これを分かり易く言うと演出家の持つ「作品全体へのイメージ」となる。幾度と無く上演され続けるシェークスピア作品等の定番テキストについても、演出家が変われば演出意図も必ず変わる。


 現在の俳優教育の問題点の一つは、テキスト上に登場する役の心理を掴むことに俳優を終始させてしまうことにある。演技とは役の心理を言動(表情含む)によって表現することだが、その発露の仕方は必ず演出意図に基づいたものでなければならない。
 ところが、残念なことに俳優の中には作品に「演出意図」というモノが存在するという概念が無い者が少なく無い。これは以下のような事が原因となっている。


 「演出意図」というモノが具体的に説明出来るモノであるとは限らないという事。演出家が「演出意図」についての説明を怠ったままで演出を行うケースが非常に多い事。演出意図が曖昧なままで演出する演出家が少なく無い事。そして、俳優教育に於いて「演出意図」という概念についての未教育が余りにも甚だしい事。


 「演出意図」という概念が希薄になると俳優は自分の役割(演じる事)について即物的に考えるようになり、作品に対する総体的な視野を持つことが出来なくなってくる。こうなると俳優が自らの役割に忠実である程、作品中において空回りしていく事になる。


 俳優は「演技的技術」だけではなく、「演出意図」に対する理解能力も望まれることを知らなければ名演はおぼつかない。


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「遂にゲイリーは激しく怒り出し、ウィノナは泣き出してしまった」 【映画「ドラキュラ」の撮影現場の回想】


 フランシス・F・コッポラの大作「ドラキュラ」で主役ドラキュラを演じたゲイリー・オールドマンが、ヒロインのウィノナ・ライダーがテキストのイメージを素直に理解出来ないことに激怒したのが上記のエピソードだ。オールドマンの怒りは当然だった。ウィノナだけがトンチンカンな解釈で役を演じようとすれば演技は噛み合ないし、撮影は全く進まない。


 ここまで読まれて、オールドマンは「キャスティングしたコッポラに怒るべきでウィノナに怒るべきではない」と思われた方がいるかもしれない。だが、ウィノナはこの作品で100万ドル近いギャラを受け取るのである。しかも、当時でメジャーデビューして6年、「シザー・ハンズ」や「ビートル・ジュース」といった話題作にも出演している。「テキストを素直に感じれない」という言い訳が通用する立場ではない。俳優としてのランクとギャラが上がれば、それに比例して責任も重くなるという好例と見るべきだろう。


 何故ウィノナはテキストを素直に理解出来なかったのだろうか?
 後にアカデミー賞やゴールデン・グローブ賞にノミネートされるウィノナは、普通にテキストを理解出来ないほど馬鹿な女優ではない。


 その答えは「価値観」と「役柄の美化」である。
 人は誰でも自分なりの「価値観」と「美意識」という物を多かれ少なかれ持っている。これを俳優に当てはめた場合、自分の「価値観」と「美意識」が前に出過ぎた状態でテキストを読んだ時に役柄を誤って感じ取る事がある。簡単に言えば自分の「価値観」と「美意識」に合う形に役柄を美化してしまうのだ。
 これは、かなりやっかいな問題だ。「無理に考えて役を掴もうとする」のでは無く、「自然に美化して感じる」のである。


 恐らく、ウィノナが上手く演じれたケースは、役が自分の価値観・美意識にフィットする物であったので素直に理解出来たのである。逆にフィットしない場合はフィットするように役をいじくって感じ取ろうとするから、上手くいかなくなるのだ。


 この価値観・美意識が演技の邪魔をするケースというのはよくあるが、上手くいかない理由がそこにあることを気づいていない俳優というのは多い。
 汚れ役、悪役が回って来た時に役の性格に人間らしさをやたらと加えようとする俳優というのは、価値観・美意識によって客観的に役を見えなくなってしまっているケースが非常に多い。
 
 自分の価値観・美意識に邪魔されずに役を掴む最も良い方法は二つある。

 (1) 日頃から多くの種類のストーリーに接して価値観の幅を広げる事。
 (2)他人を演じる事自体に対する楽しみを深めて行く事。


 この二つの内、(1)以上に(2)の方が重要だ。結局のところ価値観・美意識が優先する俳優というのは「他人を演じる楽しみ」よりも「こんな人物になりたい」という潜在的動機で芝居をやっているケースが殆どだからである。他人を演じる楽しみを深めることは自然と価値観・美意識の幅を広げる事とも繋がって行く。(1)は重要な作業だが「全てに重きを置いて、全てに美を感じれる」ようになろうとするのは気違い沙汰に等しい。


 演技を阻害する敵、役を掴ませない原因というのは本当に様々だ。一口に「才能」「努力」といった言葉で片付けられないケースというのがザラにある。シンプルに考える事は重要だが、それだけでは上手くいかないケースもある。この兼ね合いの取り方を自分なりに構築していくことが、自分の演技法を作って行く上で最も大事なことの一つとなる。


-以上-②に続く

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by:しゃと俳優沙人(しゃと)の日記

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