春彼岸・仙台の風習『削り花』 !! | “ Ackee ” の ブログ !! (b^-゜)

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3月もそろそろ半ばに差し掛かったここ仙台。

2月に78年振りをもたらした、

大雪もやっと一部を残しての状態になった。

3月後半となると、やはり春彼岸のシーズンである。

『暑さ寒さも彼岸まで』の諺とおり、この時期を境に

やっと東北にも少しずつ春の訪れを迎える事と成る。

皆さん方の各地域の春彼岸の風習は、

どういったものがあるのだろうか?

今日は、ここ仙台・宮城での春彼岸の

ちょっとした風物詩をご紹介したいと思う。

(これが『削り花』 。赤、桃、黄色の三色が特徴。)

画像みればお分かりの様に花にも見えるが、

ちょっと普通の花とは様相が違う事にお気づきに

なられた諸氏も多いかと思う。

実はこれは 『削り花』と言うもので、木を花の

様に削った仙台・宮城での春彼岸の風物詩でもある。

基本形状は、コシアブラなどの柔らかい木を細く

螺旋状に削った物と、杉等を鉋で薄く削った物の二つで、

竹に差し込んだものである。
昔はそれだけだったが、最近は葉っぱが付いたり、

チューリップ型があったり、花が2~3個とついていたりと、

バリエーションが多くなっている。

形状としては、米沢の一刀彫の作り方に似ていると云われる。

(春彼岸のシーズンになると、花屋さんの店頭には、

ご覧の様にたくさんの『削り花』が並べられる。

仙台・宮城の春の風物詩である。

これが墓標の花立てに立てられ始めると、

やっと宮城にも春の訪れを告げる。)

この『削り花』誕生のルーツは、明治維新に遡る。

明治10(1877)年ごろに、旧仙台藩の御殿医をだった

『小野木多利治』という人物が居た。

廃藩置県によって藩は無くなり、

仙台県(現在の宮城県)になったため報酬が無くなり、

止む無く収入を得るために考え出したのが事の始まりだと云う。

当初は、仙台市の孝勝寺の門前、現在の仙台市宮城野区榴岡にある

『高橋生花舗』だけで作って販売していた。

当初は「赤い色は墓には相応しくない」という事で、

まだ色は無く白木のままだったそうで、

ただ木肌を削っただけの単純なものだった。

ところが、お寺の一つが「赤い色もよろしい」となり、

カラフルな色が可能となって広く普及したのは、

明治30(1897)年頃になっての事である。

( 『削り花』を実際に作り始める処、小刀を使って

薄く手前に引く様に削る。)

発祥は宮城県であるが、調べてみると福島県、山形県、

岩手県と大体春に花が無い地域の東北では、

共通する慣習の様で、宮城県を含め他県では減りつつあるようで

逆に福島県が最も盛んな様である。

実はこの『削り花』というのは、もっと昔からあったもので、

宮中の神事に供えられたり、

庶民は御幣代わりに使用していたのだそうである。


(削った後の状態は、この様なたくさんの螺旋状に。)


話が若干反れてしまったが、

旧仙台藩御殿医小野木家の菩提寺である、

仙台市宮城野区榴岡の見瑞寺が着色した『削り花』

墓地に供えることを認めてから、

爆発的に近郷近在の寺院に広まった。

それまで白や黄色以外の花は供えることが

出来なかった多くの寺院でも、

赤い花が使われるきっかけにもなったと云う。

     (色付け作業を施す処。)


今では流通も発達し、年中通して季節に関係なく生花が手に入るが、

昔の仙台では春の彼岸に咲く花は全くなかった。

生花の代替として『ネコヤナギ』を使ったり、

また枯れ枝に小さく切った白い紙を貼って、

墓前に供えたと古い記録として残っている。

明治の中頃以後は次第に『削り花』にその座を譲っていったようである。

彼岸の頃になるとあちこちの墓地に『削り花』が供えられだすと、

ようやく仙台にも春がやってきたことが感じられ、

『削り花』は仙台の春彼岸の風物詩のひとつでもある。

(実際に墓標の花立てに上げると、この様な

丁装に。因みに仙台・宮城ではプラスして、

『ネコヤナギ』も一緒に上げる処もある。)




JG7MER / Ackee