1月の初めごろに探険した 曙橋周辺の坂道
まだ 全部アップしてない~
インフルエンザになったり その後 勝田で頭いっぱいになっちゃってたから
さささ~と 紹介します
では ここからは 坂道マニアの皆様どうぞ
マニアじゃない方適当に スルーしてちょ
あっ・・・マニアじゃない方は タイトルでもう 来ませんね
新坂上がって また防衛庁方面へ
新五段坂あがって~ 牛込柳街方面へ
外苑東通りを北上ですね
銀杏坂
住宅街にある坂道
この先を ずっーーと行けば 先日走った 大日本印刷村なんだ
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
この坂の由来は、かつて弧の坂の北側にあった久貝因幡守の邸内に銀杏稲荷があり、其の神木の銀杏の大樹に因みそう呼ばれたと伝えられる。
焼餅坂
牛込柳町の交差点にある 交番裏から 通りにかけてある坂道
【標識(東京都設置)の説明】
昔、この辺りに焼餅を売る店があったのでこの名がついたものと思われる。別名赤根坂ともいわれている。新撰東京名所図会に「市谷山伏町と同甲良町との間を上る。西の方柳町へ下る坂あり、焼餅坂という。即ち、岩戸町箪笥町上り通ずる区市改正の大通りなり」とある。また「続江戸砂子」「御付内備考」にも、焼餅坂の名が述べられている。
とい事で 交差点に丁度 和菓子屋さんあったので
おいしゅうございました
外苑東通りを またまた北上
宝竜寺坂(幽霊坂)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
昔、この辺りは七軒寺町という寺町で、この坂の上に宝竜寺という寺があったためこう呼ばれた。また明治頃、寺の樹木が繁り淋しい坂であり幽霊が出るといわれたため幽霊坂とも呼ばれた。
昼間は 全然幽霊坂って感じじゃなかったよ
滝坂
牛込保健センターの裏にある坂道
大願寺が目印
この坂について
早稲田通り沿いから、新宿区榎町40番と同41番の間を、南へ向かい登る坂道です。坂下部以外は榎町と弁天町の境界になります。坂上東側には大願寺があります。
この坂道について、岡崎『今昔東京の坂』は、
早稲田通り、榎木町四〇、食料品店と八百屋の間を南に上る。坂上、南榎町に浄土宗大願寺がある。寺は『江戸切絵図』(尾張屋版)の若狭小浜藩主酒井若狭守の上屋敷(いまの矢来町一帯)の西端に、御先手組屋敷に囲まれてあった。現在の牛込聖公会あたりまでが酒井屋敷であったが、明治維新後、住宅となった。その西方の窪地は竹藪で、俗に「やぶした」と呼ばれ。邸内の池からの流水が小滝となって流れ落ちていた。その感じがいまもある。坂名はそれに因る。・・・(後略)
と書いています。
また、石川『江戸東京坂道事典』は、
早稲田通りから榎町四〇番と四一番の間を南に上る坂で、坂上東に浄土宗大願寺がある。・・・(中略)・・・夏目漱石が、『硝子戸の中』で
矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようといふ、あの五六町の一筋道に出ようといふ、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったやうに終始薄暗かった。
と記している矢来の坂というのは現・早稲田通りのことではなく、この滝の坂のことであったといわれ、酒井邸がまだ分譲されない明治初年のこのあたりの情景であった。
と書いています。
ちなみに、上記石川本の『硝子戸の中』の引用は、文章がおかしいのではないかと思いましたが、どうも誤植(重複)が見られるようです。青空文庫
に掲載されている『硝子戸の中』(新字新仮名。ちくま文庫版)
では、
「それでも矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終薄暗かった。」
となっています。三船『歩いてみたい東京の坂』p133は、この誤植と見られる引用を、(石川本という)出典を記載することなく石川本のまま転記しているようです。
この坂の上から道はさらに南へ緩く長く上っていますが、上記本の記述に基づき、大願寺が東にある地点を坂上とします。
標識は、設置されていません。
なんなんだろうなぁ~と思う勾配のあんまり無い坂道でしたが 歴史ある坂道なんですね
とりあえず 今日はここまで
曙方面に戻っての坂道探険記事は また明日アップします
東京 坂道多しです