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(参考:プシコナウティカ)
行き過ぎた資本主義によりもたらされたのは、徹底的に効率化された生産様式とそれを支える労働力とその管理である。
そうした社会では、「健康であること」は「働くこと」と等価であり、逆に「働けないこと」が「病気である」ことと等価となる。
精神科医に与えられた役割は、その「働けない」人の内、社会的危険性のある人々を収容管理することである。

イタリアの精神医療について書かれたこの描写は、社会的収容を目的として生まれた日本の精神科病院のあり方にも当てはまる。
高度成長にまっしぐらであった60年代、70年代の精神科ベッド数の拡大は、その経済的成功と引き換えのまさに時代の要請があったということだ。
世界各国は、国によって紆余曲折がありながらも、その削減に取り組んだが、この国は半世紀前となにも変わっていない。

より効率よく収容管理するために、薬は大変便利な代物である。

バザーリアは、この精神科病院の社会的機能について、次のように述べている。
監獄と精神科病院はその管理機能として似たような施設であるが、そこが医学の場であることによって、監獄よりさらに無際限な暴力の行使が許される。
そして、その暴力が医療の名のもとで見せかけの善意や権威に覆われて、誰ににもチェックされていないと指摘している。
医者に病気と診断された瞬間に、人は主体性を失い、病者としての人生を歩まねばならなくなる。

この指摘も、また、現在の日本でもそのまま当てはまる。
いや、逆に、現代日本では、バザーリアが改革した当時のイタリアよりも、さらに複雑で奇怪な状況となっている。
病気作りと医療の名の下で拡大された福祉サービスと言う形で、その暴力は、地域にまで拡大されている。
先日報道された東京のEクリニックが地域精神保健を標榜しながら、患者を食い物にしていたのはその究極の形だ。
さらには、社会的危険性のある人々だけでなく、ちょっとだけ人生に躓いただけの人々も巻き込んでいるのである。
かつて牧畜業と揶揄された精神医療は、その体質を温存したまま、地域にその影響力を拡大しているのである。
「心のケア」「本人のために」とかの偽善に満ちた掛け声とともに、レッテル張り(診断)をもとに、人間の主体性を奪う暴力を行使している。

この問題は、ただ薬の弊害の話ではなかった。
減薬のその向こうには、レッテルはがしと社会機能の回復と言う難題が待ち構えていたのだ。
確かに、薬の使い方を糾弾するだけで被害は激減する。だが、本質的な改革を求めるのであれば、この医療というベールに隠された人権侵害を社会そのものを問わねばならない。
うつ病や統合失調症の問題はもちろん、発達障害についても同じスキームのなかにある。
発達障害の診断が、その人の人生にどう影響していくのかよくよく考えてもらいたい。

アベノミクスと精神医療問題は大いに関係している。
精神医療に対する時代の要請は、成長を前提とした資本主義における生産システムが前提となっている。
このシステムが変われば、病気そのものの定義も変わるのだ。
海外のオルタナティブ団体が、効率化や過度の役割分担に消極的な態度を取っているのはこの理由による。
精神医療の被害を追及していくと、自然に、自給自足や地産地消を目指す人々や原発反対派と繋がっていく理由も説明がつく。

あるベテランの精神科医は、製薬企業(ビッグファーマ)がある限り、この問題は解決しないと言った。
状況が絶望的なことには同意する。だが、希望が無いわけではない。
・そもそも、金融資本主義、大量生産、大量消費社会は限界に来ている。
・最後の勝ち組が、製薬企業と医療界であり、成長神話の最後のプレーヤーであること。
・それを支えるための政府の財政支出も限界であることだ。これ以上の医療化は不可能である。
そして何より、ここ20年くらいの精神医療の隆盛は、かつての大人しい統合失調症患者や家族ではなくて、私のようなもともと精神医療に縁のなかった層にまで利権を広げたことにある。我々は大人しくない。

もともと、脆弱な根拠しか持たない精神医学は、この層を説得するだけの力は無い。
まさに砂上の楼閣なのだ。どこをどう検証したって、我々の方が正論である。我々の口を封じる方法は権威による罵倒しかない。
地方のある福祉職が、利用者の薬漬けを批判し、その担当精神科医との面談に私の同席を希望した。
その返答は、「医師でもない人の話を、なんで私が聞かねばならない」である。

名前が伝わっているから、ここにちゃんと書いておこうと思う。
あなたのやってる薬漬け医療は、人の人生を奪う、立派な人権侵害である。