大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よろ)し | 福岡占いの館「宝琉館」 ホウリュウの開運鑑定ダイアリー

福岡占いの館「宝琉館」 ホウリュウの開運鑑定ダイアリー

福岡占いの館「宝琉館」の深川宝琉館長が占い(運命学)について綴る開運ダイアリーです。運命学も各占術の書籍のみに盲従せず、実占を通して活きた開運学に醸成することが肝要。おもむくまま雑感を記します。

占いのご相談で「今までA関係の仕事を続けてきましたが、BやC、Dの仕事を紹介されています。私は今後、どの仕事を選べばよいでしょうか」「不動産物件1と2、3があるのですが、これから始める商業用物件としてはどれが一番良いでしょうか」「わが社で甲さん、乙さん、丙さんのうち、この部署に異動させるのに適任はだれでしょうか」「お付き合いしようとする相手のうちAさん、Bさん、Cさん、Dさんのうち、だれが一番信頼できる良い相手でしょうか」などのお悩みで来られる方がおられます。


このようなケースの場合、四柱推命や気学で占うよりも、易占で鑑定する方がはるかに切れ味よく鑑定できることが多いです。しかも、易は深淵で東洋運命学の根幹とも言える内容です。


AかBかCか、ぎりぎりまで選択を迫られ、常識の範囲内で突き詰めて、残り10%、さらに1%まで回答が出ない場合、易占で鑑定すると、答えがはっきり見えてきます。



ホウリュウのブログ-筮竹算木とサイコロ
易占を行うには、筮竹(ぜいちく)算木(さんぎ)あるいはサイコロを使いますが、結果を示す卦(か)や爻(こう)の意味や解釈をするためには、易の聖典である「易経」を深く理解していく必要があります。易の名手と言われた明治時代の高島呑象(たかしまどんしょう)は卦や爻の解釈が深くかつ正確だったとされます。易の名手であればあるほど、易への理解、解釈の手腕が優れていたわけで、「易経」の解釈の深さこそ、易者の力量といえるでしょう。

易の誕生は古く、伝説によりますと、紀元前3000年ごろ(今から5000年前)、中国の三皇(伏犠、神農、黄帝)時代、伏犠(ふっき)という皇帝が易の八卦(天、沢、火、雷、風、水、山、地)を作ったといわれています。


ホウリュウのブログ-八卦

その後、連山易(山の穴居で狩猟生活していたころの占い)、帰蔵易(黄河流域で農耕生活を始めたころの占い)が行われ、周の時代(紀元前1100年ごろ=今から3100年前)、皇帝の文王が64卦(8卦×8=64卦)に卦辞(かじ=卦の説明文)をつけ、その子である周公が384爻(こう=64卦×6爻=384爻)の爻辞(こうじ=爻の説明文)をつけたとされます。


さらに紀元前500年ごろ、孔子や多くの学者たちによって儒教的な解釈による附文である「彖伝(たんでん)上・下」、「象伝(しょうでん)上・下」、「繋辞伝(けいじでん)上・下」、「文言伝(ぶんげんでん)」、「説卦伝(せっかでん)」、「序卦伝(じょかでん)」、「雑卦伝(ざっかでん)」の各10部を合わせた「十翼(じゅうよく)」が加えられ、易の聖典である「易経」となりました。


易経は孔子が儒教の経典である五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)の筆頭に採用したほど高く評価したもので、孔子も愛読して易経を綴じた韋と呼ばれる革紐(かわひも)が三度もすり切れるほどボロボロになるほど読み返し、「韋編三絶(いへんさんぜつ)」との四字熟語があるほどです。


易経の本文によく登場する表現に「利渉大川(タイセンヲワタルニヨロシ)」というものがあります。文章だけではイメージが分かりづらいものですが、ここで表現される大川(タイセン)とは易の原型となる八卦(はっか)の一つである水(坎)が集まる場所であり、広大な黄河をイメージしたものと考えて良いでしょう。


世界四大文明の発祥地は、エジプトのナイル川流域、中東のチグリス・ユーフラテス川流域、インドのインダス川流域、中国の黄河流域の四つです。中国では黄河流域で文明が発達し、易も黄河流域での中国人の生活の中で広がっていきました。


中国の歴代皇帝たちは、常に天変地異、飢饉、洪水などの災害から民をどうすれば守れるかを最大の課題としていました。易はそのための予知手段、天変地異を事前に察知して最善の手段を尽くすために皇帝の帝王学として発達したのです。


中国は古来、大河の水害に悩まされてきました。今でも毎夏、大雨によって長江(揚子江)流域や黄河流域は洪水被害が発生し、人民解放軍が出動して救出活動する姿が頻繁に見られます。歴代の中国皇帝は、治水事業こそ、天帝の命をうけて王になった者の務めであり、水を治められない皇帝は民衆を守るべき長としてふさわしくないと見られていました。


ホウリュウのブログ-黄河

ホウリュウのブログ-揚子江の水害で救援活動する中国人民解放軍兵士たち

黄河が大雨でひとたび狂えば、田畑も穀物も人命、文化もひとたまりもなく潰され、押し流されてしまいます。易で「坎(かん=水)」の卦は、悩み、苦しみ、災いなどの意味に取られますが、まさに洪水被害による苦悩そのものでした。漢民族にとっての恐怖の対象である洪水を食い止め、未然に防ぐ智恵こそ、皇帝に問われる天地自然の理法を知りうる英知であり、「坎」は智恵とも解釈されています。


「利渉大川(タイセンヲワタルニヨロシ)」とは、危険を冒して大業を成し遂げることをいったものです。時を選んで慎重な計画のもと、正しく進むならば冒険を成就できるという意味です。


ホウリュウのブログ

黄河の雄大さ、荒々しさを知ったのは、河南省鄭州で黄河をホバークラフトで遊覧した時に味わいました。黄河の名前の通り、河の色は黄色。河というよりも大河、湖、海のような広さです。


大川の渉るとは、水かさが安定し、洪水が起こるような天候がない状態であることを確認した上で船で向こう岸に向かう時に決断すべきです。それがどれほど勇気がいることであり、命がけの決断だったかを改めて実感させられました。易占で天変地異を予知するとは、それほど易占の的中率を信じ、判断の最終基準にしていたほど信頼度が高かったのだと思わざるを得ません。


ホウリュウのブログ-炎黄帝

鄭州市郊外の黄河南岸流域には15万平方メートルの敷地を持つ炎黄広場があり、小山に中国の伝説に登場する三皇(伏犠、神農、黄帝)のうち、農業の神・炎帝(神農)と軍事の神・黄帝の2体の巨大胸像があります。高さは105メートル、真下には黄河が広がる光景です。中国では漢族のルーツは炎帝、黄帝であると解釈されており、漢民族のシンボル的存在として注目を集めているのは、やはり、黄河流域の治水事業を成功させ、戦争に勝ち残ったこれらの伝説上の皇帝に国を治める実力と安定感を見るからでしょう。


ホウリュウのブログ-鄭州の南黄河流域

私が中国を何度も訪れ、黄河や長江を船や鉄橋で渡る度に感じるのは、「利渉大川(タイセンヲワタルニヨロシ)」とは、国を治める指導者が大川を治め、民の平安を守る強い指導者の姿でした。易占にはそのような天地理法に従った究極の結果を得る力強さを感じます。黄河流域は今年は旱魃(かんばつ)で干上がってしまい、船やホバークラフトでの観光ができないようです。洪水と旱魃が繰り返す大自然の驚異をいかにかわしながら生活できるか、中国指導者の悩みは昔も今も変わらぬ「水」問題です。